旅に対して何を求めるか。
大学時代のサークルの先輩と海外旅行に行った際に、雑談の中で出た話題だ。その人は、一言で言えば旅に求めるものは「食べ物」という考え方だった。旅先で何を食べるかのウェイトが大きく、良いものを食べた旅は良い旅に思える、とのこと。
良い食べ物を求める
これはまぁ同意できる。過去の旅行を遡ったときに、思い出されるのは食事の記憶であることは確かに多い。博多では、めんたい重、焼き鳥、もつ鍋、とんこつラーメンを満喫したのがとてもいい思い出でである。札幌では、味噌ラーメン、ジンギスカン、スープカレー、海鮮、サッポロビールなどを食べていた光景は今でも鮮明に思い出せる。
「思い出せる」ことが重要なのかもしれない。”良い体験”はたいてい思い出せるものであるが、”良い体験”とはなんだろうか。
ぶっちゃけ答えらしきものは思いついていて、それは”五感を使う体験”である。
函館山で見た夜景は今でも思い出せる。広島の原爆ドームや、ドイツのベルリンの壁など、視覚的に美しく感動的でショッキングな風景は、”目に焼き付く”ものだ。そして五感をもって脳に強く記憶されるのだろう。そのときの「きれいだ!」「すごい!」といった感情も、その記憶と結びついて残る感覚もある。五感を通して思い出せる→そのときのポジティブな記憶も思い出せる→思い出したときのその旅全体の満足度が上がる、という感じの流れな気がする。
先程の「食べ物」というのもそうだ。味覚を使って「美味しい!」というポジティブな感情と結びついて記憶に定着する。以前に五感を意識して飯を食ったら美味かったみたいな記事を書いた。食事の際には、味覚だけでなく視覚・嗅覚・聴覚・触覚を全て使っているので、記憶に残りやすいのも当然である。
ここで、旅の満足度を決める上で「ポジティブな」というところが重要である。つまり、旅先で食べた食事にネガティブな感情が結びついてしまうと、望むと望まざるに関わらず、ネガティブな感情もセットで記憶されてしまうからだ。一番わかりやすいパターンが「思ってたより美味しくなかった」だし、それ以外にも「たまたまうるさい客がいた」とか「ケンカになった」とかの外的要因が関係することもあるかもしれない。もちろん、「色々あったけど良いお店だったね」とトータルでプラスに解釈できればセーフなので、その辺は広い心をもって臨みたいところだ。(?)
逆に、「会話の内容」というのは五感を使っていない。音声をキャッチするために聴覚は使っているが、その言葉の中の言語情報を脳で処理しているのだから、会話の内容の処理は「五感から直接」ではないのだ。
もちろん「あの店でこういうしょうもない話してたな」とかを部分的に覚えていることはある。しかし、旅先でした会話の内容の中で覚えられているのは1%程度ではないだろうか。そのときは「この話でめちゃくちゃ盛り上がった!」と思ったとしても、少なくとも僕の場合、後から思い出せるのはたいてい『その時の風景』だけだ。「どこでその話をしたか」という視覚情報が残っていたり、「盛り上がってみんな声が大きくなっていたな」という聴覚情報だけで、その会話内容は覚えていないことがほとんどだ。
アクティビティを求める
さて、これまでの話は旅に「美味しい食べ物」を求める場合であり、それはかなり理にかなっているような気がする。五感を通じて記憶に残せるというのもあるし、例えば1泊2日の旅行なら朝は家で食べる前提なら、昼晩、朝昼…とたった4食しか食事のチャンスはない。せっかくの旅行、たった4回のチャンスをできるだけ妥協したくないというモチベーションは、僕は同意できる。
ただ、人によっては「何をするか」が重要な人も中にはいて、彼らからすると「最悪コンビニ飯でもいいよ」などとぶっちゃけの意見が出てきて、やもすればケンカである。とはいえ、食事の予定がノープランのまま当日・現地を迎えてしまったのなら、「食事重視勢」は分が悪いというか、「食事を重視するならお店を計画しておこうよ」と言われても文句は言えないのかもしれない。
旅に「何をするか」を求めるということは、つまり「体験」を求めていることになる。僕はわりとこれが強い気がする。体験を求めがちマン。
例えば僕の過去の体験だと、バンジージャンプに行ったり、スキューバダイビングをしに行ったりしたのは、代表的なものだと思う。
メインイベントとしてではないが、当日に空いた時間でふらっと美術館に行く①、美術館に行く②とかも、充実感が増してとてもよい。
キャンピングカーに乗ってキャンプ場に行ったり、寝台列車に乗ったりで、移動自体を体験にしてしまうのも割と好きである。レンタカーを借りてしゃべりながら移動するのも好き。新幹線はさすがに使いすぎて慣れてきてしまったけど、飛行機を使っての旅行は今でも特別感があって好きだったりする。
いわばその旅のコンセプトを決める・「○○旅行」というタイトルをつけるようなイメージだろうか。先述の「食べ物」もこの「体験」に含まれるといえばそうかもしれない。北海道と福岡は食事が大満足だったので、「食事を楽しむ」 ために何回でも行きたいものである。
となれば、「体験」というと概念が広すぎるので「アクティビティ」というのがいいのかもしれない。バンジージャンプ、スキューバダイビング以外だと、川下り、スカイダイビング、アスレチック、バナナボート、ウェイクボード、スキー・スノボ、登山、etc.「陸海空」で考えればかなり出るな…。
僕は大学時代にテニスサークルに所属していたのもあって、今でも「テニス旅行」を仲間内で計画して、たまに行く。昼間にテニスをやって、夜には飲みながらボードゲームをやる。特別なことをしても良いけれど、それだけで「体験」としては十分楽しかったりする。
必ずしも体力を使うものでなくとも良い。それでいうと、「食べ物」と同じ発想で、五感で楽しむ系のアクティビティを考えればいい。先程の美術館や水族館などの視覚を中心に使うアクティビティ。オーケストラや演劇、落語や漫才などの聴覚を中心に使うアクティビティ。陶器作り体験、うどん作り体験などの触覚を中心に使うアクティビティ。味覚ということなら、先程の「食べ物」がそれだ(アクティビティって表現とは違う気がするけど)。嗅覚を使ったアクティビティはあんまり思い付かないな…。強いて言えば、これも食事が含まれる?
あえて五感と表現を揃えるなら、先述の「体力を使うアクティビティ」は”体感”を中心に使うアクティビティとも言えるかもしれない。
- 視覚:美術館など
- 聴覚:オーケストラなど
- 味覚:食事
- 触覚:陶器作り体験など
- 嗅覚:(食事)
- 体感:スキューバダイビングなど
こうしてみると、「食事」と「アクティビティ」とで区別して書いてみたが、「五感を使った体験」という点ではどちらも共通しているのかもしれない。
みんな旅行先で五感を使いたいんだな。(?)
人を求める
あとは、人を求めるパターンだ。
「人を求める」と言うとなんか表現がアレだが、「人に会うことを求める」と書かなかったのは理由がある。それは、必ずしも特定の、バイネームでの人を求めていないケースがあるからだ。つまり、「現地の人がどんな風に暮らしているかに興味がある」とか「現地の人と会話をすることが楽しい」といったケースだ。
僕は自分から地元の人、お店の人、ホテルの人に話しかけることはほとんどないが、何かしらのきっかけで会話が生まれると、「あ、なんか話せてちょっとオモロかったな」ってなる。ラブライブ!サンシャイン!!の聖地である静岡県の沼津市に、現時点で7回も行っているのだが、ホテルの人と「ファンの方ですか?」とかから始まる会話だったりはけっこう楽しかった記憶として残っていたりする(先述の通り、やはり会話の内容はほぼ覚えていない)。
また、地方だったり海外に旅行した際には、文化やルールの違いを感じるときに面白いな、と思ったりする。例えば、函館ではみんな当たり前にスノーブーツを履いていて、スニーカーで来た自分たちが旅行者であることは丸わかりだった。ウィーンで路面電車にデカめのイヌを載せているのに驚いた。ロンドンでは地下鉄が停電して止まっても乗客が全く驚かないのに「マジで?」ってなった。パリでは当たり前にぼったくりされる(これは苦い思い出)。
文化は人の行動に現れる。常識や価値観が人によって違うのは当たり前だが、個人ではなくその場所の人が「みんな当たり前のように、自分の価値観にはなかった行動」を取っているのを目撃すると、それ自体が珍体験になる。いわゆるカルチャーショックである。
文化は、同じ生活圏の中では同じになる。例えば家族や同僚との会話の中で新たな発見が生まれる可能性は低いだろう。しかし、旅先や異国の人との会話の中で新たな発見が生まれる可能性は高い。それが面白い。だから、それを求める。カルチャーショックを求めて旅に行く?そこまで言語化すると、僕としては「さすがにそこまでのアクティブさはないわ」となったけど。
もちろん、「誰かに会うために」というのも、旅の理由としては非常によろしい。僕自身、「オーストリアのウィーンに出向中の先輩に会う + ドイツのベルリンに在住のjMatsuzakiさん(@jmatsuzaki)に会う」という理由でヨーロッパまで飛んだこともあり。そのときのことはこちらの記事でちょっと触れてる。
アーティストのライブのための遠征とかも、ある意味では「アクティビティ」だけど、個人的にはこの「人を求める」の感覚が強い。生のパフォーマンスを見に行くとか、そのアーティストを直接この目で見るとか、あるいは同じファンの仲間(もちろん知らない人たち)の様子を見て楽しんだりとか、そういう要素のウェイトもわりと大きい気がしている。
ただ、「知ってる人に会うために知らない土地に行く」ならともかく、「知らない人に会うために知らない土地に行く」は心理的ハードルは相当高い気がするので、「知ってる人に会うために知らない土地に行く」のが良さそうだとは思った。
旅先では、クールさを捨て、こどもになれ
さて、「旅に何を求めるか」という問いに共通の正解なんてあるはずがない。人によって異なる。そりゃそうだ。
ただ、その旅を良い旅にする確実な方法がある。それは、旅先では、いちいち感動することだ。
「すごい!」「美味しい!」「キレイ!」「へぇ〜!」「なんでだろう?」「気になる!」「面白い!」「いとをかし。」と、まるで子供のような純粋な反応をできた方が、旅は面白くなる。自然とできるならそのままでいいし、自然とできないなら口に出してみるのがいい。
僕はどちらかと言えばこういうのは苦手なのだが、旅先ではかなり純粋な気持ちを意識して出すようにしているし、ある程度バカになって、ある程度こどもになるつもりでいる。
僕たちは歳を重ね、さまざまな経験をしてさまざまなことを知っていく。知らないことが減ってくる。新しいものに出会う確率は減っていく。しかし、それでも世界は無限に面白いもので溢れているし、世界では無限に面白いものが生まれ続けている。そして、旅先ではそれに出会う確率がめちゃくちゃ高くなる。
せっかくそんなチャンスなのに、それらを「知ったような顔」でクールぶって感動しないのは、もったいないと思う。大袈裟なくらいにこちらから感動しにいけばいい。
旅先では、刺激を受けられる。停滞した日常に新しい風を吹き入れてくれる。そうして新鮮なエモーションを持って、また日々を過ごしたり新たなアイディアが生まれたりするのだと思う。
チャイフ
[…] 個人ブログの方で書いた「旅に対して何を求めるか」という記事の中でなんだかんだごちゃごちゃ言っていたのですが、今回「行ってよかった場所」の記事を書いて思い出しました。自分は、旅に非日常を求めていたのだ、と。 […]