【エッセイ】京大卒の僕が”京大卒”と言いたくない理由

僕は京大卒の人間だ。日本の京都府京都市左京区にある、あの京都大学だ。

ただ、僕は人に「自分は”京大卒”である」ということを言いたくない。今はそんなに気にしていないので「言いたくないとかつて思っていた」という方が正しいかもしれない。なぜ言いたくないかというと、周りの反応がめんどくさいからだ。具体的には、こんな感じである。

  • すごいね
  • 賢いんだね
  • モテるのでは?

最後のやつが一番意味わからん。京大卒=モテるってどういうことやねん。冗談で言ってるにしても、レッテル貼りも大概にせぇよ。

おっと、深呼吸( ˘ω˘)スゥーハァー…

はい。

“京大卒”だから「すごい」と言われるのはむずがゆい

僕はどうやら、”京大卒”であるという情報に対して他者から「すごい」と言われることに対してネガティブな感情を持っているらしい。嫌悪感、というほど強いものではない。むずがゆい。恥ずかしい。そんな感じだ。

ここで、自分の中に矛盾のようなものを感じた。僕は基本的に「人にすごいと言われたい」はずだった。自分が成し遂げたことに対して「すごい」と言われるのは気持ちがいい。ブログを継続していること、筋トレを継続していること、早起きをしていること、バンジージャンプを跳んだことがあること、海外旅行に10か国くらいは行ったことがあること、日常的に自炊をしていること、ダイビングのライセンスを取ったこと。これらに対して「すごい」と言われることは気持ちがいい。

一方、”京大卒”であることに対して「すごい」と言われても、先ほど言った通り、むずがゆい。恥ずかしい。そんな感覚を覚える。もしかすると、”京大卒”に対して、後ろめたさがあるのかもしれない。「京大を卒業しているが、大したことはしていない」という後ろめたさだ。先ほど”レッテル貼り”と言ったが、京大卒=優秀な人間である、というジャッジは大いに否定したい。京大卒じゃなくても優秀な人間や成功している人間はいくらでもいる。京大卒でも優秀じゃない人間や落ちぶれる人間もいくらでもいる。

以前に記事で学歴について言及している。学歴も、広い意味では資格と同じようなもので、自分のことを人に伝えるときのわかりやすい記号のようなものに過ぎないのだ。

【エッセイ】資格とか経歴って選択肢だし、無理に活かす必要はないよな

周囲の期待値を超えられていないという後ろめたさ

もう少し言語化を試みる。「京大を卒業しているが、大したことはしていない」という後ろめたさは「京大卒の人間たるものこれくらいはできるのでは?」という周囲の(根拠のない)期待値を自分が超えられていない、という後ろめたさかもしれない。自分が満足していない成果物に対してベタ褒めされてお立ち台に祭り上げられて、醜態を晒しているような気分になる。

…だとすれば、僕は何を成し遂げれば”京大卒”であることを誇ることができるのだろうか。結論、無理だと思う。僕が何を成し遂げたところで、”京大卒”だからこそできたことではないと言いたいのだ。”京大卒”とは関係なく、僕個人の行動の結果だと言いたいのだ。「さすが”京大卒”」なんて言葉で片付けられたくないのだ僕にとって”京大卒”は揺るぎない事実であるとともに、ただの過去の事実でしかない。

“東大卒”というワードを存分に利用するQuizKnock

ところで、“QuizKnock”という集団をご存知でしょうか。

「楽しいから始まる学び」 や「身の回りのモノ・コトをクイズで理解する」 をコンセプトに、伊沢拓司を中心とした東京大学などの卒業生及び現役生らにより運営されている知的メディアである。

メディアのタイトル自体も”QuizKnock”にしているらしいが、東大出身者を中心とした株式会社の名前でもある。僕は普通に彼らのファンで、Youtubeにメインアカウントでアップロードされている動画はほとんど視聴している。だからこそわかることなのだが、QuizKnockの本質は競技としてのクイズ経験者の圧倒的な知識量と、それを活かしたコンテンツ制作能力の高さだ。決して”東大卒であること”ではない。しかし、”東大卒”というワードは依然としてネームバリューを保っている。動画のサムネイルに「東大生が」とつけると、やはり目を引くのだ。彼らはテレビにもよく出演しているが、やはり「東大生」「東大卒」「東大出身」というワードはほぼ確実に使われている。

つまり、”東大卒”ということを便利な道具として活用しているのだ。一本槍ではなく、1つの手段として活用している。

“京大卒”は”客寄せパンダ”として利用してやるわ

これは、僕も大いに参考にできる。QuizKnockが利用している”東大卒”は、“京大卒”というワードにも同じことが言える。良くも悪くも、目立つのだ。いつもYoutube動画を見ているQuizKnockが取っている戦略の1つを、自分もそのまま使うことができるとは、灯台下暗しだった。東大だけに(は????????????)

僕は”京大卒”ということを他者に言いたくなかったが、それは僕のわがままだった。何を言われたところで、気にしなければいいだけの話だ。”京大卒”という概念ではない自分自身が為したことである、ということを主張していけばいい。むしろ、せっかく自分が持っている貴重な道具だ。この道具は持っている人が少ない。これは存分に利用すべきかもしれない。一度吹っ切れてしまえば、”京大卒”という便利な道具をいわば”客寄せパンダ”として使っていけばいい気がしてきた。

チャイフ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です