麻雀による人生の教訓。過去の選択と配られる手札に「たられば」は介在しない。

麻雀から人生における教訓を得ている。

長い間麻雀を嗜んでいると、抽象化された教訓をいくつも得ることができる。例えば、「攻撃は最大の防御」だったり、逆に「防御は最大の攻撃」だったり。前者の真意は「攻撃される前に相手のチャンスを潰してしまえば、そもそも防御する必要がなくなる」という意味で、後者の真意は「優勢のときは無理にリスクを負わずに守りに徹することで、相手の逆転のチャンスを減らすことができる」という意味だ。麻雀がわからない人はチンプンカンプンだと思う。

それはさておき、そんな麻雀から得ている教訓の中でも、わりと人生に置き換えても大切だなと思える教訓があるので、紹介しておこうと思う。

過去の選択に「たられば」は介在しない

1つ目は、過去の選択に「たられば」は介在しないということだ。

ver.麻雀

麻雀をやってると、アホほどこの思考に苛まれる。攻めてロンされたら「攻めなければよかった」と思うし、守っててツモられたら「守らなければよかった」と思う。そんなことの繰り返しなのである。

しかし、実はどちらも間違っている。麻雀で「結果論で語る」ことほど愚かで不毛なことはないのだ。あくまでもその判断を下した際の推測・思考こそを信じるべきであり、その判断の結果起きた結果について悔いるべきではない。

重要なことは、判断軸をブレさせないこと。その瞬間その瞬間を全力で集中し、選択をし続けること。全く同じ状況下で、あるときはAを選択し、あるときはBを選択するような非一貫性があってはならないのだ。

その状況を改めて考え直し、「判断軸が間違っていた」と認められるならそれは修正して次に活かせばいい。だが、「判断軸はあっていた。しかし負けてしまった。それは運が悪かっただけだ」と思えるなら、次も同じ判断軸で同じ判断をし続ける勇気を持つことだ。ただ偶然の失敗に気を取られて、正しいはずの判断軸をブレさせることの方がよほど危ない。

ver.人生

ここまでは全て麻雀の話だが、「結果論で語るべきではない」のは人生においても同じことが言える。なぜなら、僕たちは過去に戻れないから。過去に遡って「やっぱりこっちにします」と判断を曲げることはできない。過去に遡ってビットコインを買うことはできない。それは麻雀も人生も同じだ。

だからこそ、その時点その時点での状況を把握した上で、自身の知識や経験を活用して選択をし続ける。その選択の結果、いつもうまくいくとは限らないだろう。仕事なら損失を出してしまうかもしれないし、プライベートなら時間やお金を無駄にしてしまうかもしれない。それでも、その瞬間の選択を信じ続けることが重要だし、それしかできないのだ。

例えば、牛乳が少し遠くにあるスーパーAでは120円で売っているのを知っていた状態で、たまたま立ち寄ったスーパーBで買おうとしたけど150円で売られていたときの判断。ここで「安く買いたい」という判断軸のもと「スーパーAまで歩いた」のに「牛乳が売り切れていた」としても、「じゃあ多少高くてもスーパーBで買うのが正解だった」、にはならない。「売り切れ」という情報がなかったはずの過去に遡って結果論で語ることほど愚かで不毛なことはない。「安く買いたい」という判断軸こそを信じるべきだ。スーパーBで買うのは、「早く買いたい」という判断基準が「安く買いたい」を上回ったときだけだ。

このように、その時点で知り得なかった後情報込みで、過去の選択を否定することは、他人に対しても自分に対してもするべきではないのである。

配られる手札に「たられば」は介在しない

2つ目は、配られる手札に「たられば」は介在しないということだ。

ver.麻雀

麻雀をやってると、この思考にも苛まれる。主に負けている時だ。「もっと良い配牌が来てくれればいいのに」とめちゃくちゃ思う。

麻雀は実力3割、運7割と言われているゲームでもあり、試行回数が大きいと実力の差が出てくるが、短い勝負であれば運の良し悪しで簡単に勝ち負けが決まってしまう側面がある。実力が拮抗している相手と対戦していて負けているとき。つまり、先ほどの教訓の通り常に正しいプレイングをし続けているにもかかわらず負けているときこそ、この思考に陥る。

要するに「良い配牌が来てくれたらラクになれる」のである。

悪い配牌が続くと、精神が挫けそうになる。「自分が負けているのは自分の実力が低いからではない。運が悪いだけなんだ。良い配牌さえ来てくれれば、自分は勝てるんだ。」そんな思考に陥る。

ぶっちゃけその側面もあるのだが、とはいえ配牌は自分のコントロール外である。『7つの習慣』の用語を借りると、配牌は「関心の輪」だ。関心の輪に対して文句を言っても状況は好転しない。関心の輪を恨んでも問題は解決しない。

では、麻雀における「影響の輪」とは何か?打牌である。自分がコントロールできるのは、いついかなるときも、目の前の一打だけなのである。悪い配牌だろうと、常に自分にできる最善を尽くし続けるだけしかできない。ドラがないなら手役を揃えるしかないのだ。

何度悪い配牌を配られようとも、挫けずに、愚直に、正しい選択をし続けた者にこそ、勝利が、いや「勝利のチャンスが」与えられるのである。残念ながら、正しい選択をし続けたからと言って、最終的には運で決まってしまう虚しさもあるのだが、自暴自棄になって雑な選択をし続けたものには、少なくとも勝利のチャンスは与えられない。

ver.人生

人生においても同じだ。麻雀と同じく、「うまくいっていないとき」にこの思考になる。いわゆる「ないものねだり」というやつだ。自分にないものを持っている他人を必要以上に羨ましく思ったり、成功者を必要以上に妬んだりしてしまう。しかしほとんどの場合、他人は「関心の輪」だろう。他人のステータスと比較して気を滅入らせることは百害あって一利なしだと思える。

他人のことはいい。自分のことだ。

そしてここからが本題だが、「配られる手札」つまり「現時点での自分の状況」というのも「関心の輪」だ。「背がもっと高ければ」「顔がもっとかっこよければ」「スタイルが良ければ」「頭が良ければ」「視力が良ければ」「スキルがあれば」「お金があれば」「時間があれば」などなど。さらに言えば、家庭環境、生まれた環境、育った環境、職場環境、人間関係など、今この瞬間を生きる僕たちにとっては全て「言ってもしょうがないこと」だ。

では、人生における「影響の輪」とは何か?「将来の自分の状況」である。スタイルが気になるならダイエットや筋トレに励むことは選択肢だ。顔が気になるなら整形でなくても、アクセサリーや美容品などを買い揃えるほか、髪型や眉毛を整えることでも改善は可能だろう。それこそ筋トレも効果があると思う。知能が欲しければ勉強すればいい。視力が欲しければレーシック手術などもある。スキルが欲しければ勉強すればいい。お金が欲しければキャッシュフローを見直して自分のスキルにあった仕事を模索すればいい。時間が欲しければ時間の使い道を洗い出して無駄な時間を減らせばいい。

いやまぁさすがに背丈はどうしようもない。背丈は割と一生「言ってもしょうがないこと」になると思う。ただ、「背丈がない中で何ができるか」に考え方をシフトすればいい。少なくとも、「悲観しても仕方ないこと」と「なんとかできそうなこと」に仕分けるだけでも、無駄に心を疲弊させずに済むと思う。

僕がないものねだりじゃなくったときの話と、仏教に関連させつつあるものに注目しようって話を載せておく。

「ないものねだり」じゃなくなってた話

2021.06.14

【哲学】ないものに憤怒せず、あるものに感謝する【仏教】

2021.08.12

人生では全員が勝てる

過去を悔いる必要はない。過去は反省に使うのみだ。

今を悲観する必要はない。今、この瞬間を全力で生き、未来に向かっていくだけだ。

そしてそれを続けた人にのみ、「勝利のチャンスが」与えられる。

麻雀と異なるのは、人生では「勝利を個人が定義できる」こと、つまり「全員が勝てる」ということだ。

チャイフ

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