有名人に対して、なんとも言えない憧れがある。
20年前くらいなら、テレビに出ている人だ。
俳優、芸人、タレント、スポーツ選手、アーティスト、アイドル。最近で言えば有名なYoutuberとかもそうかもしれない。
共通点は、メディアへの露出が多い人だろうか。いや、そんなことはない。メディアへの露出が多かったらそれはそれで目にすることが多くて結果的に知るチャンスが多いだけで、テレビに出ることが少ない人も、僕の憧れの対象である。
映画監督、漫画家、作曲家、脚本家、声優、小説家などか。舞台俳優も最近だと憧れの対象だ。この辺は、どちらかといえば「クリエイター」という括りにグルーピングできるのかもしれない。
さらに言えば、「ビジネスで成功している人」も憧れの対象になる。起業家、投資家、あるいはインフルエンサーと呼ばれる人種も、対象である。
じゃあ僕はテレビに出たいのか。出たらオモロいなとは思うけれど、それは目的にはならない。
じゃあクリエイターになりたいのか。なれたらオモロいなとは思うけれど、なるための努力というか、それで食っていくことがいかに大変かはなんとなく把握しているつもりなので、少なくとも今からガラッと転身するつもりはない。たぶん、楽しさよりも苦しさが勝ってしまうと思う。
じゃあビジネスで成功したいのか。これはちょっと思う。なぜなら、今のキャリアの延長線上にあり、最も現実的に目指せる気がするからだ。…ただ、「キラキラしたい」かというとちょっと違う気もする。
Contents
僕が憧れる対象は「成功している人」かもしれない
僕が憧れる対象になる共通点や基準はわからん。
強いて言えば、最後に言った表現がしっくりきている気がする。ビジネスかどうかはともかくとして「成功している人」に憧れているという仮説が立つ。
で、ここまで言って思うのが、「成功しているってなんやねん」ということだ。そもそも成功の基準はなんやねんとも思うし、あと気になる点として、僕が勝手に憧れてる人は自分で自分を「成功している」と思っているのだろうか。
仮にインタビューしたとして、中には「成功している」と自信をもって答える人もいるかもしれないが、多くの人はそうは答えないような気がしている。一定の成果は出していることは認めたとしても、その人なりの不安や苦労を抱えていたり、もっと先のことを考えていて「これで満足」とは答えないような気がしている。
疲れていたり迷っていると、他人と比べてしまう
以前、こちらのブログで「ないものねだり」じゃなくなった話を書いた。
昔に比べると、「ないものねだり」をしなくなったな、とは思う。しかし、とはいえ「成功している人の成功した話」を聴くと、ちょっと焦ったり、ちょっと悔しくなったりする。
「他人と比べる必要はない」と頭では分かっていても、つい油断すると他人と比べてしまう。「油断すると」と書いたが、油断するパターンはいくつかあると思っている。
まずテキトーに言うと、疲れている時は、外部の情報に振り回されやすいと思っている。疲れている時は、元気な時と比較して情報をネガティブに解釈しやすくなる。
仮に友達が「昇進したよ!」というニュースを報告してくれたとき、元気な時だと「おめでとう」と言えるかもしれないが、徹夜明けに聞いたら「それがどうした」とか言ってしまうかもしれない。最悪である。だから健康には気をつけましょうという話は他の記事でいろいろしているので、今は割愛する。
他のパターンとして、自分の選択に自信を持ちきれていないとき、つまり迷っているときも、外部の情報に振り回されやすくなると思う。自分の選択に自信を持ちきれていない状態は、無意識に他の選択肢を求めてしまっている状態とも言えるのだ。とりあえずAという選択をしたが、BやCと比べて本当にAで良かったのか、迷いがある状態。そんな状態でD、E、Fと「一見良さそうに見える選択肢」をチラつかされると、目移りしてしまうのも無理はない。
選択とは今いる場所に辿り着くまでの全て
「選択」とは全てである。今いる場所に辿り着くまでの全てである。
今、実家暮らしなのか一人暮らしなのか誰かと同居しているのか。賃貸なのか持ち家なのか。個人事業かサラリーマンか経営者か。オフィスまでの通勤距離はどのくらいか。住んでいる都道府県はどこか。スマホは何か。料金プランは何か。パソコンは何を使っているか。というか、日常的にパソコンを使っているか。ガス会社はどこか。電気会社はどこか。水道会社はどこか。Youtubeプレミアムは入っているか。Netflixは入っているか。Amazonプライムは入っているか。クレジットカードはどこを使っているか。銀行はどこを使っているか。ネットバンキングは使っているか。洋服は何枚持っているか。どんなものを持っているか。カバンは。財布は。靴は。その他の身につけているものは。車は持っているか。自転車を持っているか。家の収納はどうなっているか。どんな本を持っているか。作業机はどんな状態か。友人とは今でも連絡を取り合っているか。誰と連絡を取り、誰と連絡を取っていないか。友人の結婚式には出席するか。家族との交流は続けているか。今日、どんな服を着ていたか。今日、どの道を歩いたか。どんな店に入ったか。何を買ったか。夜はシャワーにしたか、お風呂にしたか。食事は何を食べたか。誰と、どんな会話をしたか。どんな番組を見たか。インターネットでどんなサイトを見たか。etc.etc.etc.
先に断っておくが、良い家を、車を、職業を、モノを持っていることが「良いこと」ではない。重要なことは「自分が納得のいく選択をできているかどうか」だ。
集中して聞いてほしい。
ここはめちゃくちゃ重要であり、多くの人が勘違いしている部分であり、言っていて僕自身も勘違いしていたことであり、この記事を書いていてようやく思い出してきた。
世の中は金ではないし、人と比べる意味はマジでない
ソースの存在しない例え話をする。
ある人が都会から離れた田舎で生まれて、家族に大切に育てられ、学校に行って教養をつけ、実家に戻って農業を手伝い、結婚をして子宝にも恵まれ、家族や町の人と毎日笑って過ごして生涯を終えたとして、その人生は幸せだろうか。もちろん一概には言えないが、僕は幸せだと思う。
ダラダラ例え話をして言いたかったことは2つある。
1つは「世の中は金ではない」という歴史の中で1億回くらい言われたような概念である。生活したり選択肢を広げるために金を稼ぐことは非常に有意義なことであるが、金が一定以上なかった人生は不幸せかというとそんなことはない。
もう1つは「それに比べて自分は」という発想をする機会もなく「自分は絶対的に幸せだなぁ」と勘違いしながら死ねるのが一番幸せだということである。
イヤでも人と比べてしまう現代社会
ただ、今の世の中はインターネットが普及してしまい、見たくもない情報をキャッチできてしまう世の中である。「見たくもない情報」とは、「自分よりも成功してそうに見えて、自分よりも幸せそうに映る姿」だ。それはテレビを通して見る芸能人かもしれないし、SNSを通じて見る友達かもしれない。
だから、油断しているとイヤでも「他人と比べて」しまう。世界には80億人、日本だけでも1億人の人口がいるのだから、自分よりも成功している人、自分よりも優れている人、自分よりもカネを持っている人なんていくらでもいる。当たり前だ。
しかし「頭で分かっている」のと「実際に見る」のとでは話が違う。実際に見てしまったら、もう無理なのだ。何が無理かって、「自分は絶対的に幸せだなぁ」と勘違いし続けるのが無理なのだ。どうしても比べてしまう。
それでも。
自分の選択を信じ続けろ
それでも僕は、「自分の選択を信じ続けろ」と言いたい。それは、これを読んでいるあなたに対してもそうだし、過去の自分や未来の自分に対しても2度と忘れないように、言い続けたい。
僕は冒頭で、有名人に対して、なんとも言えない憧れがあると言った。それは言ってしまえば、「有名になれなかった自分に対する後悔がある」ということなのだろう。
じゃあ僕は、何も持っていないのか?
じゃあ僕は、何にもなれていないのか?
そんなことはない。例えば、いい職場で働けている。いい環境で生活できている。いい友人に巡り会えている。毎日食事をして、風呂に入って、あたたかい布団で眠ることができている。しかも空き時間を使って勉強したり、新しいことにチャレンジしたり、こうしてブログを書いて発信をしたりもできている。
(言葉にすると、急にわざとらしく見えるな。)
自分がしてきた選択は変えられない。それでも、自分がしてきた選択を「良かったな」と解釈し直すことはできる。
気休めかもしれない。
でも、気休めでもいいじゃないか。
まずは、あるものに感謝をする。
その上で、なりたいものがあるなら、未来を選択していけばいい。
チャイフ
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