こんにちは、チャイフ(@chaif123)です。
誰しも、完璧な人なんていません。それは言われたらそうなのですが、僕たちは自分の身体しか持っていませんし、自分から見た世界しか見えません。自分に関しては良いところも悪いところもわかっていても、どうしても悪いところに課題意識を持ちますから、そこへの意識が強くなります。
他の人からは世界がどんなふうに見えているのか、他の人は世界をどんなふうに生きているのか、それを想像することはできても、想像の域を出ません。そして、僕たちは多くの場合、想像の完全な他人と実感の不完全な自分を比較し、「かわいそうなじぶん」を作り出してしまいがちです。
しかし、そんな悲観に意味があるのでしょうか?「欠けている」というのは悪いことなのでしょうか?
「欠けている」という前提で人生を謳歌する
理想と現実のギャップに苦しむ
僕たちは、成長する過程で、自分が得意なことや苦手なことがあるのをなんとなく理解していきます。そして、自分の周りにいる人が得意なことや苦手なことがあるのもなんとなく理解していきます。自分が得意なことを苦手な人もいれば、自分が苦手なことを得意な人もいます。
「自分はなんでもできるべきだ」という前提に立てば、できないことがある現実は不足している状態です。実際にはそうではありませんし、本当に”なんでもできる”人はいないでしょう。「とはいえある程度有能な自分でありたい」とは誰しもが思っていて、その理想と現実とのギャップに苦しむわけですよね。
曖昧な「有能でありたい」に限りません。身体が弱い人は「健康でありたい」と望むでしょうし、メンタルが弱い人は「精神的に強くありたい」と望むでしょう。身長や、容姿や、器用さや、学力などにコンプレックスを持つ人もいるでしょう。
TRPGのキャラのステータスは、たいていどれか低い
僕はTRPGというゲームでよく遊びます。TRPGとはテーブルトークRPGの略で、作成したキャラクターがシナリオの中で動き、そのキャラクターをロールプレイして、会話をしながら物語を進めていくゲームです。
(僕のキャラ作成の手順を公開しています)
そのロールプレイをするキャラクターのステータス(たとえばクトゥルフ神話TRPGでは、筋力、体力、精神力、敏捷性、体格、容姿、知性、学力の8つのパラメータ)をサイコロで決めます。
サイコロなので、当然運で決まります。高いステータスもあれば、低いステータスもあります。筋力が低くても、体力が低くても、「そういうキャラ」としてキャラ作りをして、シナリオをプレイします。それはもう仕方ないので、ロールプレイでゴリ押すか、技能でがんばるか。できる範囲で、できることをやるしかないのです。
ないものを数えるんじゃなくて、あるものに感謝する
以前、「ないものに憤怒せず、あるものに感謝する」という内容の記事を書きました。
この記事は「他者の『〜してくれない』に憤怒するのではなく、他者の『〜してくれた』に目を向けて感謝しよう」という趣旨ですが、自分が持っているものに対しても同じことが言えます。
自分が持っているものは、誇っていいはずです。そもそも「完全な自分である」という理想は虚構であり、持っていないものを数えるのは際限がなく不毛です。
配られた手札で戦う
よく「配られた手札で戦う」という喩えもされます。これはポーカーなどのカードゲーム麻雀でも同じことが言えると思って書いた記事もあります。
「もっといい配牌が配られてくれ」というのはどうしても思ってしまいますが、現実問題として目の前の配牌とツモでなんとか状況を打開するしかないのです。
それと同じで、人生でも、自分が持っているものでなんとかするしかないのです。僕は同じことだと思っています。
人からの褒め言葉はあなたの「持ち物」の承認なので、受け取りましょう
褒め言葉は謙遜(否定)せず、ちゃんと受け取ろうっていう記事も書きました。
人からの褒め言葉は、”あなたが持っているもの”、あなたの良いところを承認してくれています。それを「そんなことないですよ」と謙遜するのは、誠に失礼です。そこは「ありがとうございます」でいいですし、せっかく見逃しがちな”持っているもの”を思い出させてくれているところなので、その褒め言葉はしっかり噛み締めるべきです。
「欠けている」という前提で人生を謳歌する
色々言ってしまいましたが、本題に戻ります。
人は誰しも「何かが欠けている」状態こそが自然なのです。それが大きく欠けているのかちょっと欠けているのか、というのは本人の感じ方次第です。そりゃもう振られたステータスであり、配られた手札ですから、その前提で人生を謳歌する方向に意識を向けたほうがよほどハッピーです。
それに、TRPGでは基礎ステータスの成長は滅多にありませんが、リアルの人生ならちょっとずつ成長していくことができます。筋トレをすればSTRは伸びますし、適切な健康習慣を実践すればCONは伸びます。ビジネス本を読んだり独学によって、INTやEDUを伸ばすこともできます。POW、DEX、SIZ、APPを伸ばすのは少し難しいですが、そこにコンプレックスがあるならできることはあるはずです。
この「受け入れる」という発想は、僕がクリフトンストレングスの『運命思考』の資質を5位に持っていることも影響しているとは思います。
できることをできる範囲でやったらいい
反省をしても後悔は不要
記事自体はタスク管理の文脈ですが、「反省をしても後悔は不要」ということもお伝えしたいです。
基本的に、後悔は長い間ダラダラし続けることは不毛です。いや、そうは言っても気持ちを切り替えられないこともある、というのは理解しているので正論で殴るつもりはないのですが、事実としてはそうです。
だから、誰かに話したりとか、瞑想したりとか、コーチングを受けたりして、「後悔」ではなく「どうしたいか」「何ができるか」という発想に転換していく工夫をするのです。
喪失感から立ち直る力のことを、「レジリエンス」と言います。レジリエンスについては以下のTED公演が非常にわかりやすいです。16分程度の動画なので、ぜひ見てみてください。
過去を悲観する必要はない
過去は事実としてありますが、それを現在の僕たちがどう解釈するかは自由です。「あんなことがあったからもうどうしようもない」と考えるのか、「あんなことがあったけど、今はそれなりに持ち直しているし、これからやりたいこともある」と考えるのか。
「悪いあの人」「かわいそうな私」ではなく「これからどうするか」
『幸せになる勇気』のなかで出てくる、印象的なシーンです。
我々が語るべきことは、ここにはないのです。あなたがどんなに「悪いあの人」について同意を求め、「かわいそうなわたし」を訴えようと、そしてそれを聞いてくれる人がいようと、一時のなぐさめにはなりえても、本質の解決にはつながらない。
われわれが語り合うべきは、まさにこの一点、「これからどうするか」なのです。「悪いあの人」などいらない。「かわいそうなわたし」も必要ない。by 『幸せになる勇気』
僕がいろいろ言っていることは、わりとこれが全てです。笑
コントロールできない他人に今の自分の境遇の責任を求めることも、今の自分がつらい境遇にいるのを嘆くことも、長期的には不毛です。『幸せになる勇気』でも「一時のなぐさめ」にはなると言っている通り、多少はそれが必要になることもありますが、ずっとそれを引きずり続ける必要はないのでは、と思うのです。
「諦める」ことの重要性についての記事もあります。個人的にけっこうお気に入りです。
「諦める」の対義語は、「執着する」「固執する」「未練を残す」などがあります。まさに、過去に執着することを手放していいんじゃないか、というのを言っていきたいですね。
影響の輪にフォーカスする
『7つの習慣』に、「影響の輪」「関心の輪」の話も出てきます。
私たちは皆それぞれ、多くの関心事を持っている。健康、家族、仕事の問題、経済、世界の平和など。関心の輪を描くことで、関心を持っている事柄と関心を持っていない事柄とを分けることができる。そして、関心の輪の中に入っている事柄を見つめれば、実質的にコントロールできないものと、コントロールできるもの、あるいは大きく影響できるものがある、ということがすぐに分かる。by 『7つの習慣』
要するに、コントロール可能な「影響の輪」の外側にコントロール不可能な「関心の輪」があり、現実的にコントロール可能な「影響の輪」にのみアクションをしていきましょう、という話です。
誰しも何かが欠けている。そんな自分を受け入れていく。
自分が何かしら足りない部分がある、というのは誰しもあると思います。
けれど、その欠けた部分も含めて、僕であり、あなたなのです。それを良い・悪いと評価する必要はなく、それ自体を受け入れていく。その意識を持っていきたいのです。
チャイフ
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