こんにちは、チャイフ(@chaif123)です。
先日、昔は「ないものねだり」だったのに、今はないものねだりではなくなった、という記事を書きました。
「ないものねだり」じゃなくなってた話
そこから発展して、“ない”ものねだりをせず、”ある”ことにフォーカスすると、「他者がしてくれ”ない”」が気になる確率が下がっていることに気づきました。自分のことに集中しているので他の人がどうしてくれるかに鈍感になったのかもしれません。
そこで今回は、どのような点に「気にしない」ようになったかを見ていきたいと思います。
それでは!
Contents
そもそも他者はコントロールできないという前提
「ないものねだり」の話とはややズレるかもしれませんが、大前提としてあなたに知っておいてほしい概念があります。弊ブログをよく見られているあなたならばもう十分に理解されているかもしれません。
「そもそも他者はコントロールできない」という概念です。いわゆる課題の分離ですね。
「課題の分離」を実践するための3つのポイント
本記事では他者の「◯◯してくれない」に不満を持ってしまうことを咎めるスタンスで書いていますが、この「そもそも他者はコントロールできない」という前提をよく理解していれば、この不満は理不尽で不毛であることがわかると思います。
ないものねだりとは、欠乏欲求
「ないものねだり」は、いわば欠乏欲求といえます。欠乏欲求とは、マズローの五大欲求を分類する用語で、最上位の「自己実現の欲求」以外の欲求のことを指しています。
- 自己実現の欲求・・・成長欲求(存在欲求)
- 承認・自尊の欲求・・・欠乏欲求
- 愛情・所属の欲求・・・欠乏欲求
- 安全・安定の欲求・・・欠乏欲求
- 生理的欲求・・・欠乏欲求
参考:https://it-counselor.net/psychology-terms/deficiency-needs-growth-needs
“不満”とは、”満たされず”と書きますね。「満たされていない」という思いがあるから、「満たされたい」と思う。これが欠乏欲求です。おそらく人によって解釈は異なりますが、これをラフに表現したのが「ないものねだり」なのかなと思っています。
ありがちな3つの「ない」
ないものねだりの「満たされたい」という思いのベクトルは、容易に他者に向きます。他者に対して「自分を満たしてくれ」と思うようになります。「自分を満たしてくれる他者」を是とし、「自分を満たしてくれない他者」を非とするようになります。
このような、ありがちな3つの「ない」の例を挙げたいと思います。全て「◯◯してくれない」という書き方にしていますが、あるべき姿としては「◯◯してくれる」ことを当然と思わずに感謝することが重要、というスタンスで共通しています。
サービスをしてくれない
第一に、「サービスをしてくれない」です。想定しているケースは限定的で、主に飲食店を利用する際に感じることです。
以下の記事でも述べていますが、飲食店を訪れる客には「当たり前」と「だろう」が詰まっています。
【持論】払う料金とは、サービスに対する正当な対価である【価格と価値】
- どんなときも笑顔で接客をしてくれる”だろう”
- 向こうから気付いて注文を取りに来てくれる”だろう”
- このくらいの時間で商品を提供してくれる”だろう”
実際のサービスがこのような”だろう”に沿っていたときは、客側にとってはそれが「当たり前」なので特に何も感じません。実際のサービスがこのような”だろう”に反していたとき、客側にとって「期待を裏切られた」と感じ、クレームにつながったりします。しかし、この期待は一方的で理不尽な期待です。
この文脈で聞いたことがある諫言に、「ファストフード店のサービスに文句があるなら高級フレンチにでも行け」というものがあります。やや乱暴な言い方ですが、この諫言の真意は「サービスの質は、店・店舗・店員によって異なることを理解せよ」ということです。
あるべき姿としては、受けたサービスを当然と思わずに感謝することが重要です。”してくれなかった”ことに注目するのではなく、”してくれた”ことに注目するようにすれば、自然と感謝できるのではないでしょうか。
助けてくれない
第二に、「助けてくれない」です。僕の場合は、仕事をしていて思うことが多いです。
プロジェクトメンバーはチームであり、協力関係であることは間違いないです。できないところは補い合い、お互い助け合うことは重要です。
しかし一方で、「助けてくれる”だろう”」と思ってはいけません。あくまでも各個人がそれぞれに与えられた仕事をこなすのがベースです。そこから余裕があったときに他のチームメンバーに対して協力・助力することができます。
プライベートでも同じです。よく言われる喩えにこんなものがあります。
自分のコップ(満足度・幸福度の器)を満たしてから、余った水で初めて人に貢献することができる。
この概念をわかりやすく説明した良いnoteがあったので、参考に貼っておきます。
参考:幸せのコップ理論
一般的に、「人を助ける」という行為は自分に余裕がある人がすることができます。他者に何かを与えようと思うならば、まずは自分のやるべきことをして、自分自身を満たしてあげるのが第一です。
話を戻しますと、「誰かを助ける」というのは簡単なことではない、ということです。だからこそ「助けてもらえた」ときに”有難い”ことと思って「ありがとう」と伝えることが重要なのですね。
(ちなみに誤解してほしくないので補足しますが、「助けてほしい」とアラートをあげること自体はイエローフラッグの観点から超重要です。困っているときに助けを求めることはすぐにしてくださいね。)
【書籍紹介】『プロジェクトを変える12の知恵』の重点項目6選
わかってくれない
第三に、「わかってくれない」です。
わかったような口を利かれたくはないけど、
— チャイフ⛅自己中心で生きる (@chaif_123) March 2, 2021
わかってほしいとは思うんだろなぁ
人は「わかったような口を利かれる」のは嫌がるのに、「わかってほしい」とは思うのです。
もう少し解像度を上げます。
人は「自分が隠したい部分・指摘されたくない部分・後ろめたさを感じている部分を言語化される」のは嫌がるのに、「自分がアピールしたい部分・承認されたい努力・評価してほしい部分を理解・共感してほしい」とは思うのです。
そして、後者の「わかってほしい」が「わかってくれて”当然”」「わかってくれる”だろう”」にシフトすると赤信号です。他者が「わかってくれない」という事実を耐えることができなくなります。
もちろん僕も、今でも「どうしてわかってくれないんだ」と思うことはあります。しかしすぐに次のように考えることができています。
最近ではこのようにポジティブに”諦め”て、「じゃあ(わかってほしいなら、わかってもらうために)どうするか」に思考を切り替えることができる確率が上がってきました。
ポジティブに”諦める”について書いた記事を置いておきます。僕のお気に入りです。
【意外】「諦める」という、実は前向きでポジティブな言葉の語源とは?
あるものに感謝せよ
いかがでしたでしょうか。
意識を高めるという意味で「スタンダードを上げる」のは重要です。しかし、享受していることを当たり前と思い感謝の基準が上がってしまうという意味での「スタンダードが上がる」のは危険です。雲泥の差があります。
僕はできるだけ、”ない”状態をスタンダードと思うようにしています。これは非常に難しく、すぐに忘れてしまいます。人は慣れる生き物だからです。しかし、忘れてはいけません。「他者に与えられたもの」に感謝ができるからこそ、自分も「他者に与えよう」と思うことができるのです。
あなたは今週、誰かに「ありがとう」を伝えたでしょうか?いつも行くお店の店員に「ありがとう」を伝えたでしょうか?身近にいる人に対して「ありがとう」を伝えたでしょうか?それができた瞬間から、あるものに感謝するパラダイムを獲得できるかもしれません。
それでは。
チャイフ
まぁ人それぞれ価値観は違うからな…
人それぞれ忙しかったり、虫の居所が悪いときもあったりするだろうからな…