僕は、”自由”を体現したい。
そして、人の“不自由”を外していきたい。
そんなことを、考えている。
Contents
“自由”という価値観
Q. 自分の人生において、何を成し遂げたいか?
これを、コーチングのテーマにした。コーチングでは(少なくとも僕の場合は)、あまり時間をかけて論理的に考えるより、直感で頭に浮かんだ概念を垂れ流す方が納得感の高いものが出てくる。論理的に考えようとすると、都合のいいウソが混じってくるからだ。
で、出てきたのが、自由。
自由を体現したい。
これは単に「好きなことを気ままにやる」という意味ではない。以前にこのブログでも書いた通り、「選択をできる状態」を意図している。”自由”とは、選択肢が見えていて、その選択肢を物理的にも精神的にも選べる状態であること。そんなイメージだ。
“自由”は、僕が大切にしている5つの価値観のうち、最も重要な価値観だ。そういう意味では、これが自分の口から出てきたのは意外ではなく、「やっぱりそこに落ち着くのか」ぐらいの感覚。
そして、ハタから見ていて”不自由”に見える人に対しても、その”不自由”をなんとかして解放してやれないかと考えている。これが、「自分の人生において、何を成し遂げたいか?」の答えに近いかもしれない、と思った。
押し付けはしないし、できない
一方で、「ハタから見ていて”不自由”に見える人」とは、なんとも勝手な解釈だと思う。
例えば、都心ではなく郊外に住んでいる人がいたとして、その人が「金銭的事情により、家賃を浮かせるために仕方なく郊外に住んでいる」のか、「人が少なめで静かな環境で暮らしたいからあえて郊外に住んでいる」のかで、全く話は変わってくる。
これを僕の価値観で評価すると、前者は”不自由”だが、後者は”不自由”ではない。にもかかわらず、「郊外に住んでいる」というステータスだけを見て、家賃を抑えつつ都心に住む選択肢や、家賃を確保するための家計上の方針や計画をプレゼンテーションして押し付けてしまっても、その人にとっては不要どころか迷惑にすらなり得る。
僕が人の”不自由”を解放したいといくら思っていたとしても、それは勝手に押し付けはしないし、できない。これはこの先の話の大前提になる。
「選択肢を認識できていない」フェーズ
“不自由”とは、持っている選択肢を選べないこと。
ここには大きく2つのフェーズがあると思うのだ。「本当は持っている選択肢を認識できていない」というフェーズと、「選択肢を認識した上で、なんらかの理由で選べない」というフェーズだ。まずは前者について。
個人に向けた場合、教育にも興味が出てくる
1人1人、個人単位で「”不自由”を外す」をしようと思えば、どんなところに”自由”を感じていて、どんなところに”不自由”を感じているのか、1人1人話を聞く必要がある。というか、話を聞ける。そんな活動ができる場の1つが、「教育」という分野だと思う。それは必ずしも学校教育に限らず社会人向けの教育事業のようなものも含んでいるが、いったんイメージしやすい学校教育で例を考える。
例えば、卒業後の進路を迷っている高校生に進路相談を受けたとする。まず就職するのか、大学に進学するのか。その場合の場所はどこか。大学だとしてどのランクを狙うのか。どんな学部がある大学にするのか。専門学校という選択肢もある。そもそも日本国内に絞らず、海外の大学という選択肢は視野に入っているか?もし熱烈にやりたいことがあるなら、就職でも進学でもなく、起業という第3の選択肢もある。同じ進学をするにしても、将来的に起業をするという選択肢を見据えた前提で、まずは進学する…という考え方もある。というかそもそも将来に向けてどんなイメージを持っているのか、あるいは何が見えていないのか、何に不安感があるのか。
いくらでもヒアリングができてしまう。
自分でも少し偏った考え方だと思うが、「見えていない世界がある」というのは、”不自由”の一種だと思っている。なぜならこれも「選択肢を選べない」に含まれるからだ。その選べない理由が「知らない」である、という因果関係と捉えている。
押し付けはしないし、できない(2回目)
繰り返しになるが、もちろんここに関しても、必ずしも「いたずらに選択肢を広げる」ことが正しいことではない、ということにも注意しなければならない。
例えば、同じ「地元に就職する」という選択をするとしても、「海外の大学に進学する」という(あくまでも僕の価値観だが)キラキラして見える選択肢を知ってしまうと、自分の選択を卑下してしまう可能性もあるからだ。
「”知らない方が幸せ”だった」ということはよくある話だろう。それに、家庭の事情や親の価値観を知らずにそんな選択肢を吹き込んでしまうと、いわゆる”余計なお世話”になってしまいかねない。
それにそもそも、必ずしもハードルの高い選択イコール良い選択、とは限らない。茨の道を進むのはそもそも大変の苦労が伴うし、そこで成功を掴める確率もおそらく低い。人生は、最終的に本人が「幸せだった」と感じられればそれでいいわけなので、知らないまま幸せに生を全うできたならそれがその人にとっての正解ということにもなる。
他人は他人、私は私。ぐらいでいい。
(何度も言うように「人に押し付けない」という前提だが、)それでも僕は「知った上で、選ぶか選ばないかは自分の意思。その選択をどう解釈するかも自分の意思。」というポジションを取りたい。
というか、「”知らない方が幸せ”だった」は確かにあるかもしれないが、その気になればネットでいろんな人の生活や仕事が見えてしまう時代だ。SNSをスイスイしていると「同い年の人が20代のうちに年収ウン万円で、海外で暮らしていて…」みたいなのが目に入ってしまうこともあるだろう。
そんなことはどうでもいいのだ。
人と比較をしていいことなんてない、というのはもう疑いようのない真理だ。だったら、
「なるほど、そういう人生もいいですね。けど自分はこういう人生で、コッチの方向でやっていくので。お好きにどうぞ。他人は他人。私は私。」
くらいの冷めた視点を持った方がいい。
現状とは違う選択肢が見えてしまうことは、悲報でもない。かといって特に朗報でもないことも多い(なぜなら、選択肢を知っていてもほとんどの場合は現状維持が選択されるからだ)。ただそこに選択肢が増えただけだ。それを選ぶも選ばないも、それこそ本人の自由だ。
”悩み”のところで後述するが、僕が目指したい「”不自由”を解放する」、というのは「物理的な選択肢を授ける」のもあるが、そういう異なる視点を授けて「精神的な選択肢を授ける」という方が比重としては大きい。
大衆に向けた場合、発信活動になる
1人1人、個人単位で目の前の人の「”不自由”を外す」をするのも草の根活動的にやっていきたいとは思っている。とはいえ教育現場にいるわけではないし、そういった機会が多いわけでもないので、やはり平常的な活動の方向は大衆に向くことになる。と考えた場合、具体的にはブログやラジオやSNSなどの発信活動になる。
いつもいつも啓発的なことを発信しているわけではないけれど、読んだ人に何か新しい視点を与えるような情報は多く出したいと思っている。このブログでもタスク管理、健康、価値観に関する記事を多く出しているつもりだが、これらにシンプルに興味があるというのもあるし、誰かの「知らなかった」を「そういう考え方もあるのか」に変えたいんだと思う。
ちなみにそのほかの記事の例として、例えばオタクに学ぶシリーズは割とお気に入り。
「選択肢を認識した上で、なんらかの理由で選べない」フェーズ
“不自由”とは、持っている選択肢を選べないこと。
ここまで「本当は持っている選択肢を認識させること」について話してきたが、ここからは「選択肢を認識した上で、なんらかの理由で選べない」というフェーズの話をする。
「できるのにできないと思い込んでいること」があるはず
ここにはバイアスがあって、「自分にはできない」と思い込んでいることも、実は「できる」と思える余地があるはずなのだ。4象限で考えるとわかりやすい。
- 本人もその選択肢を「できる」と思っているし、本当に「できる」(現実)
- 本人はその選択肢を「できる」と思っているが、本当は「できない」(無謀)
- 本人はその選択肢を「できない」と思っているが、本当は「できる」(可能性)
- 本人もその選択肢を「できない」と思っているし、本当に「できない」(論外)
(「無謀」と「論外」って違いわかりづらくね?っていうのは僕も思いますが、いったんこれでご容赦ください)
1.は例えば、「自転車に乗る」とか。
2.は例えば、「そこそこ料理の腕に覚えのある人が三つ星レストランで出てきた料理の味を完全に再現すること」とか。
3.は例えば、「転職する」とか。
4.は例えば、「60歳を過ぎてから一度もやったことのない陸上競技の棒高跳びでオリンピックに出場して金メダルを取る」とか。
もちろん実際はこんなシンプルに線を引けるものではない。なので、あくまで僕が言いたいことを説明するための図である。
「できる/できない」という極端じゃなくて、「得意/やろうと思えばできるけど、苦手意識がある」という場合もある。
あとから読み返す前提で、1回目の読書は「爆速で読む」でいいらしいという考え方は、僕の読書に対する苦手意識を一変させた。特に速読の練習をしたわけでもない。視点を少し変えるだけで、自分の感覚としての「苦手意識」が払拭されたのだ。
こういうことがしたいのだ。他の人にもこういう体験をもっとしてほしい。つまり僕は「本人はできないと思ってしまっているものを、できると思わせてやる」ということをしたい。図で言えば僕は3.にアプローチしたいのだ。
あと、この4象限では時間経過を加味できていない。3.の例として「三つ星レストランの味の完全再現」を挙げたが、すぐには無理でも本気でそこから10年単位でフランス留学までして修行すれば、可能になるかもしれない。
「半年で10kg痩せる」くらいなら、何も考えないと無謀だが、ちゃんと計画して生活習慣を改善すればできないことはないだろう。
“悩み”は“不自由”に包含される
“悩み”は“不自由”に包含される。
僕の”悩み”のイメージはこうだ。
- 不安、疑問、心配、焦り
- ぐるぐる、迷走、堂々巡り、出口がない
- 複数の変数・要素・選択肢・事情に板挟み状態
- 葛藤により選べない状態
“悩み”とは、「感情の整理がつかない、納得がいかない、決め切れない」など、100%精神的な原因で行動に移せない状態を指すと思っている。何かと何かが心の中でせめぎ合い、葛藤しているのだ。
それに対して“不自由”はもう少し広い概念で、「もし本当にできるとしたら今すぐにでもやりたいんだけど、XXの理由でできない」という感じ。ここのXXには精神的な理由も入り得る。その場合は”悩み”に分類される。
XXには物理的な理由も入り得る。その場合は”悩み”ではないが、”不自由”ではある。強いて言えば”前向きな諦め”というところか。物理的な理由とは例えば、『能力』『お金』『時間』『場所』『人脈』『社会』『法律』など。物理的な原因であれば、ある意味、諦めがつく。諦めがつくから、悩まない。
さらに言えば、そもそも『認識』も含まれる。「本当は持っている選択肢を認識できていない」というフェーズのことだ。この状況に改めて名前をつけるなら、“井の中の蛙”。先ほどの例で言えば、「都心や海外に出る」という選択肢を知らず、全く想像すらついていない状態というのは、本人は悩んではいないだろうが”不自由”だ、とは思ってしまうのだ。
そういえば、このあたりの考え方は 行動のネックを5つの要素に分解した という記事でほぼ同じことを言っていた。ただ、今回それをもう少し解像度をあげたというか、網羅的な解釈を取り入れたという感じ。
“悩み”の答えは自分の中にある
“悩み”のフェーズまで来ていれば、そこには実は物理的な要因はない。言ってしまえば、”気持ちの問題”なのだ。
最終的には、”悩み”を構成する要素や事情を自分で整理して、自分で答えを出すしかない。
答えを出すとは、葛藤を乗り越えて何かを選択することだ。
選択するとは、決断することだ。
決断するとは、何かを切り捨てることだ。
切り捨てるには、その切り捨てた選択肢に目をつぶることが必要だ。
切り捨てた選択肢に目をつぶるのは、怖いことだ。
選択肢を切り捨て目をつぶる怖さに立ち向かう勇気を持てるかどうか。
極論の極論。「そうは言っても簡単じゃない」という反論を承知で(僕も本気で悩んでいるときに、どれだけ悩んでるかも知らんやつにこんなことを無責任に言われたら間違いなくキレるだろう)、最大限抽象化してシンプルな関係を言ってしまえば、”悩み”に足りないのは勇気だけだ。
そして、「かつては勇気が持てなかった”悩み”に対して決断する勇気を持てるようになる」ときに何が起きているかというと、「その悩んでいたことに対する見方が変わった」ということだ。状況は何も変わっていない。ただ、自分の見方が変わっただけなのだ。
つまり、決断する勇気を持つために新しい視点を持つこと。これが”悩み”を解決する本質だ。
逆に言えばこれだけなのだ。ただこれだけのことが、いかに難しいか。
もしも仮に、あらゆることに対して本当に葛藤もせず達観して冷徹に決断していける人がいるとしたら、それはもう悟りを開いている。外れ値だから無視していい。
僕たちは葛藤する。悩む。悩みは尽きない。それが普通だ。
誰かが、何かに対して、新しい視点を持つための手助けをしたい。そこに、僕の大きなモチベーションがある。
物理的な原因も精神的な原因も、全部ひっくるめた“不自由”を外していきたい
てな感じで決意表明をしたが、僕がアプローチしたいのは最後のフェーズの”悩み”だけではない。その前のフェーズである”前向きな諦め”にもアプローチしたい。さらにその前のフェーズである、”井の中の蛙”にもアプローチしたい。
全部ひっくるめた”不自由”を外していきたいのだ。
「誰かは選択できるのに、誰かはそれを選択できない」ということに課題意識がある。そう考えると、僕は広い意味での公平を望んでいるのかもしれない。あぁ、ありそうだ。しっくりくる。
誰しも、”不自由”は解放できる。と思っている。可能性を秘めている。その可能性を信じたいし、そのためにできることがあるなら、したい。
ここ最近は、そんなことを考えている。
チャイフ
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