銭湯にいる外国人を見て嬉しくなったんだが、そんなことってないですか?
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銭湯を楽しんでいる外国人がいた
僕はときどき、銭湯に行くことがある。
自宅の風呂でも十分ではあるのだが、たまにいくと気持ちがいい。それに、サウナで自律神経を整えることによって、より健康的になれる気がする。
その銭湯で、たまに外国人が利用しているのを見かける。
ある日、ヨーロッパ系かアメリカ系の外国人が銭湯にいた。少しすると、別の外国人が2人入ってきて、元々いた人に「ヘーイ」って感じで声をかける。おそらく知り合いなのだろう。
そこで3人が合流して話しているのを見て、なんだか嬉しい気持ちになってしまったのだ。
水風呂の後で外気浴をしている間はけっこうヒマなので内省をすることが多いのだが、このとき「なんで僕は嬉しい気持ちになったのだろう?」と思いを馳せてみた。
ただ3人組でウェイウェイしてる人を見ても、おそらく同じ感情にはならないだろうから、何か条件のようなものがあるのだと思う。
我が国ニッポンを誇らしく思う気持ち?
まず浮かんだのは、故郷たるニッポンという国を楽しんでいる異国の人に対する気持ちかもしれない。
「そうだろう、ニッポンは良い国だろう」という誇らしい気持ちを抱くのかもしれない。
初めて会った海外の人に対する別れの挨拶として、「じゃあね、ニッポンを楽しんでね」という言い回しがある気がする。海外の人と接した数少ない日本人代表として、ニッポンを楽しんでほしい、その良さを堪能してほしいという気持ちの現れだろうか。
そこでふと思った。日常生活ではあまり意識しないが、僕は意外と我が国ニッポンが好きなのかもしれない。愛国心…というと急に軍隊チックに聞こえるが、少なからず良い国だと思っていて、だからこそその魅力を感じてくれている異国の人の姿を嬉しく思えるのかもしれない。
「知らない人」が純粋な気持ちで何かを楽しんでいる姿に懐かしく思う気持ち?
もう1つあるのが、初々しさに対して微笑ましく思う気持ちかもしれない。
例えば、自分にとっては見知った街や風景を、修学旅行中の学生が楽しそうにしている姿に対しても少し嬉しく思うことがあり、これに似ている。
その銭湯に来ていた外国人は、所作の手慣れ具合からおそらく日本にはすっかり慣れているのだろうが、とはいえ英語で会話をしているところを見るに、生まれは日本ではなかろう。相対的に日本に対する経験値が低いであろう彼らが、少なからず初々しさをもって何かを楽しんでいる姿を、懐かしくも微笑ましくも嬉しく思うのだと思う。
言ってしまえば、”かわいらしさ”だろうか。
…逆に言うと、「知ったような顔」でクールに斜に構えている人は”かわいげ”がなくて冷めた目で見てしまうという可能性もあるかもしれない。勝手な自戒であるが、初心を忘れないようにしたいと思ったりした。
ライブ会場で楽しんでいるオタク
さて、話は変わるが、僕はよくライブに行く。
ジャンルはラブライブ!である。詳しく知らない人も、名前くらい聞いたことはあるのではないだろうか。
コロナ禍になってからは自宅でライブビューイングを楽しむこともできる世の中になってきたが、やはり現地でしか味わえない楽しさがあると思っている。
その現地でしか味わえない楽しさの1つが、ステージではなくライブ会場で楽しんでいる観客たるオタクたちを見ることだ。
もちろん、基本的にはステージに集中しているのだが、たまに会場を見渡してみることがある。周りの人がしっかり笑顔であることや、ブレード(サイリウム)の色がキレイに広がっている様を見ると、嬉しくなるのだ。
これも、「なぜ嬉しく感じるのか」をちょっと考えてみる。
一体感を感じられて嬉しい?
1つは、一体感を感じられて嬉しい、ということだ。
みんなが1つの方向を向いていること自体に嬉しさを感じる。チーム感とも言えるかもしれない。
直近だと、ラブライブ!サンシャイン!!の6thライブで、ブレードでバンテリンドーム全体に虹を作ったときに強く感じた。スタンド席を横に8分割して8色、それにアリーナ席で1色を足して、合計9色の虹を作ったのだ。(参考:【ラブライブ!】【朗報】Aqours 6thライブのアンコール、虹が完成する)
2019年に開催された5thライブでも同様の企画がなされて、同様に虹を作ったのだが、当時は企画側の人が会場を移動して呼びかけを行っていた。「23列から35列の方は、エメラルドグリーンにしてください!タイミングは、アンコールの時でお願いします!」といった感じに。
しかし、2022年に行われた6thライブでは、時世上「声が出せない」のだ。5thライブの時のように、現地での呼びかけはできない。6thライブでのファンのブレードによる虹作成企画の成功は、事前のTwitterでの告知・広報のみで当日を迎えた。
おそらくその情報を事前に仕入れていなかったファンも大勢いたと思う。ライブ会場でアンコールが行われる中、周囲のブレードの色をなんとなく感じ取り、空気を読み、合わせたのだ。会場を覆うブレードの色が、まるで1つの意思をもった生き物かのように虹を形成していく過程は、見ていて感動的だった。
少し話が長くなったが、このようにその場にいる人同士が呼吸を合わせて動いている様に感動を覚えるのだと思う。それがお互いをよく知る関係ではなく他人同士なので、尚更すごいと感じる。
一体感がなくとも「好き」という気持ちが同じなら嬉しい?
一方で、ライブ会場だけではなく、会場の外で集まっているオタクたちを見たときも、なんとなく楽しく感じることもあるのだ。
ライブが始まるまでの時間を思い思いに過ごしている彼らは、一体感があるわけではない。むしろバラバラである。
しかし、その「ジャンルが好き」という気持ちは、その場に集まっている全員が共通しているのだと思う。そういうイベントだから当たり前なのだが、これにもちょっとした感動がある。
もしかすると、一体感の有無にかかわらず、同じジャンルを「好き」という気持ちが同じなら嬉しいと感じるのかもしれない。
自分が好きなもので共感できる喜び
「銭湯を楽しむ外国人」の話と同列で語るつもりが、オタクの話でかなり盛り上がってしまった。話を戻すことにする。
僕はまず、単純に「楽しそうにしている人を見る」のが好きなのだと思う。ストレングスファインダーで言うところの共感性(12位)かもしれない。相手の楽しい気持ちが、自分にまで伝播してくるのだ。
そして、誰かの楽しんでいることが、僕自身も好きなものだったらなおのこと嬉しい。自分の「好き」と他人の「好き」が同じだったときの喜びは、相手の楽しさが自分に伝播するだけでなく、自分の「好き」が相手にも理解(共感)してもらえたと感じて、ダブルで嬉しいのだろう。
オタクは「同志を見つけづらい」という悩みを抱えている
またオタクの話になってごめんなのだが、オタクの普遍的な悩みとして、「同志を見つけづらい」があると思っている。ここでいう同志は、同じジャンルを好きな人間を指している。
言うまでもないと思うが、「現場で初対面の人に声をかけて友達になる」なんてえげつない行為をいともたやすく行うことは不可能に近い。
かといって、元々の知り合いにそのジャンルが「好き」だと伝えることはそれなりにハードルがあるし、「よく遊ぶ仲」の中に同志がいる確率は結構低い。いたとしても、それまでの関係とは別に「オタク仲間」という関係性を構築するのは意外とハードルが高い。
結局のところ、それなりにハードルの高い「Twitterなどのネット上の同クラスタ内で同志を見つける」というアプローチになってしまう。同志自体はおそらく簡単に見つかる。オフラインで顔を合わせる第一歩は「一緒にイベントに行きませんか」になると思う。もちろん顔も見えない相手と知り合いになるのは心理的な障壁があったり一定のリスクがあるのかもしれないが、それほどに「同志を見つける」というのは難しいのだ。
だからこそ、オタクはしばしばそのジャンルを「布教」して「同志じゃなかった知り合いを同志に仕立て上げる(言い方」というアクションを取るのかもしれない。
自分の「好き」は言いふらしてなんぼ
オタクじゃなくても、「同志を見つけたい」とは思っているはずだ。同志を見つけたい人のために、間違いない方法をお伝えしたい。
それは、自分の「好き」を言いふらすことだ。
恥ずかしいなんてことはない。もしバカにする人がいたとしたら、それはそれの魅力を知らない人が知ろうともせずに言っているだけの妄言だから気にしないでいい。
それに、「いつも話している人が実は同じものを『好き』なのに、お互いそれに気づいていないだけ」という事象はけっこう起こっていると思う。
もちろん「好きな」に続くものはジャンルだけでもいくらでもある。アニメ、マンガ、ドラマ、テレビ番組、映画、ゲーム、スポーツ、アクティビティなどの趣味関係だけでなく、食べ物、飲み物、場所、色、音、匂い、建物、車、家電、有名人、考え方、学問など。それら全てを言いふらし続けることは難しいだろう。
それでも、分かり合い語り合い同志を見つけたいならば、自分の「好き」は言いふらせ!!
全てではないが、趣味公開記事①、趣味公開記事②、趣味公開記事③、あたりで趣味を公開しているので、ぜひ見ていただけると喜びます!「私もこれ好きです!」みたいなフィードバックがあるとかなり嬉しい。
(こちらの記事で説明していた通り、自分の感情に目を向けてみることで、自分の価値観をまた1つ発見できた気がする。)
チャイフ
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