こんにちは、チャイフ(@chaif123)です。
以前別の記事で、「人は100%エゴで生きてる」と言及しました。
どういうことか伝わりきらなかった気がするので、「人は100%エゴで生きてる」の真意を補足するために今回筆を取りました。
結論としては、最終的に自分でアクションを選ぶしかないんだから、それってすでに「エゴ」じゃね?ということなのですが、それだけでは納得いただけないと思います。
全世界に言いたい、もっとわがままになれ、と。
というわけで、いろいろと屁理屈をこねくり回しながら掘り下げていきますので、1つの考え方としてお聞きください。
それでは!
Contents
「エゴ」とはネガティブな言葉か?
以前の記事で「人は100%エゴで生きてる」と言いました
「人は100%エゴで生きてる」は初出のフレーズではなくて、以前の記事で言及したことがありました。
人は「必要だから」では動かない【頭ではわかっているのに】
なぜなら、根源的に人は100%エゴで動いているものであり、100%エゴで動くべきだと思っているからです。
僕としては自然と出てきたフレーズなのですが、違和感を感じる人は少なくないようです。
そこで、今回改めてその意図するところを掘り下げてみたいと思います。
エゴの意味とは
エゴの辞書的な意味について、今一度整理しておきます。
1つは心理学で使われる用語で、自我・自尊心を意味します。
もう1つは、利己主義という意味の「エゴイズム」を短縮した言葉としてのエゴです。エゴイズム(利己主義)は、他人の迷惑を考えず自分の利益のためだけに行動するやり方、考え方のことを指し、そのような考え方の人は「エゴイスト(利己主義者)」と呼ばれます。
現代の日常生活で使われるエゴは、後者の「エゴイズム」の略語としての意味合いが強くなっています。
本記事における「エゴ」という2文字の単語も、”ほとんど”後者の「エゴイズム(利己主義)」「エゴイスト(利己主義者)」の意味で使っています。
(”ほとんど”とは頻度において、ではなく密度において、です(?????????????????)
(???????????🤔🤔🤔🤔🤔🤔))
すみません後で補足します。
「エゴイズム(利己主義)」「エゴイスト(利己主義者)」は、一般的にはよくない考え方・改めるべき考え方だと認識されていますが、僕はかなりポジティブな意味に捉えています。
もう少し踏み込んで解釈すると、「本来そうあるべきなのだから『仕方ない』といったん諦めて認めるべき考え方」だと思っています。
(「諦める」についての記事はこちらをチェックしてみてください!)
【意外】「諦める」という、実は前向きでポジティブな言葉の語源とは?
周りに気を遣う人が多すぎる
もちろん僕も、”他人の迷惑を考えず自分の利益のためだけに行動するやり方、考え方”を推進するつもりは毛頭ありません。
世の中がそんな人ばかりでは、協力して何かを成し遂げることなんて到底できないですし、人間を人間たらしめる社会性が欠如します。
ただ、だからと言って”自分のことを考えず、他人の利益のためだけに行動するやり方、考え方”が推奨されるわけがありません。
これは過度な「自己犠牲精神」です。
両極端なのです。
100がダメなら、0なのか。
僕の感覚では、現代日本においてこちらの「自己犠牲精神」を持っている人が多すぎる気がするのです。
だからこそ「好きなことして生きていく」のようなフレーズが甘美に聞こえるのです。
「好きなことして生きていく」なんて、今さら言われることでも特別なことでもなく、基本中の基本ではないでしょうか。
それが許されない、あるいは許されないと思わせてしまう環境や社会がどうかしてるのです。
また、「やらないといけないことを放棄して好きなことをしてよい」とは言ってないです。
そもそもあなたの目の前にある”それ”は、自分で選んだことですよね?と言いたいのです。
「エゴ」という言葉の再定義
さて、エゴイズム、つまり利己主義の辞書的な意味をもう一度見てみます。
他人の迷惑を考えず自分の利益のためだけに行動する
自分の利益を取るか、他人の利益を取るか、という二者択一のようになっているところが最も不可解なところです。
そこで、「エゴ」という言葉の再定義を図ります。
自分を最優先し、余裕があれば他の人のことも考える
まずは自分を最優先すべきです。
僕の感覚を少しでもわかりやすく伝えるために、数字を使います。
- マジで他人の迷惑を考えない、自己中心的・理不尽・厚顔無恥な完全究極体エゴイストを100とします。
- 逆に、欲がなく常に他人を優先する、遠慮がち・謙虚・低姿勢・滅私奉公な完全究極体自己犠牲マンを0とします。
僕の感覚では、70〜80くらい(自分を最優先しつつ、余裕があれば他の人のことも考える)がちょうどいいです。
冒頭で「”ほとんど”後者の意味」と表現したのはこういうことです。(????????🤔🤔🤔🤔🤔🤔🤔)
先述の通り、「自分は後回しでいい」「エゴ=悪」と考えている(10〜20くらい)人が多すぎるのです。
だから、「100になれ」「完全究極体エゴイストになれ」と言っても、たぶんできない人がほとんどだと思います。
本人はこのように思っていても、実際にはなんだかんだ60くらいに着地すると思います。
タイトルで「人は100%エゴで生きてる」と言っているのに矛盾しますが、「そのつもりでも60くらいに着地する」「やりすぎくらいがちょうどいい」という感覚です。(屁理屈みたいですね。伝わる気がしない笑)
「自分を優先する」というのは口で言うのは簡単ですが、日々の生活の中での訓練が必要なので、時間がかかります。
なぜなら、「他人よりも自分を優先する」ということは「他人の存在が必要」であり、「他人との関わりが必要」であり、「2人以上のコミュニティでのコミュニケーションが必要」だからです。
感覚的には筋トレのようなものですが、1人だけではトレーニングできなくて、他人とのコミュニケーションの中で時間をかけて練習して鍛えていく類のものになります。
『7つの習慣』の「インサイド・アウト」を僕の言葉で表現した形
僕が「エゴ」という言葉を使っている感覚について、もう少し別の言葉で解釈すると、「内側からこみ上げてくる気持ち」「自分自身の能動的な意志」のような意図があります。(もはや辞書的な意味から外れていますが)
解釈違いになっている可能性はありますが、『7つの習慣』の「インサイド・アウト」の感覚を表現しているつもりでもあります。
(こちらの記事でも「インサイド・アウト」の内容に触れています。↓)
所属している動機を思い出し、そのために自分は動く
インサイド・アウトとは、一言でいえば、自分自身の内面から始めるという意味である。内面のもっとも奥深くにあるパラダイム、人格、動機を見つめることから始めるのである。by『7つの習慣』
誰でもない自分の内面にある動機を見つめる。
自分自身にフォーカスするという意味では、「エゴ」と近い気がしませんか?
『7つの習慣』 第4の習慣「Win-Winを考える」
『7つの習慣』 第4の習慣「Win-Winを考える」にも関連しています。
「Win-Winを考える」の重要な要素として、第1の習慣〜第3の習慣がクリアできていることが前提である、ということがあります。
本書において第1の習慣〜第3の習慣は「私的成功」にグルーピングされています。
あくまでも自分にフォーカスし、自分の中での優先事項を優先することができたら、第4の習慣〜の「公的成功」を目指すことができます。
その「公的成功」の第一歩が、「Win-Winを考える」なのです。
先ほど「70〜80くらいがちょうどいい」と言った通り、100ではないです。
100だと、Win-Lose(相手を負かし、自分だけ得をする考え方)になってしまいます。
目指すべきは、まずは自分を最優先しつつ、余裕があれば他の人のことも考える、という流れです。
『7つの習慣』ではこのようにも書かれています。
- 自分のWinを得るために必要なもの:勇気
- 相手のWinを得るために必要なもの:思いやり
自己犠牲に流れずに自分のWinもしっかり重視する「勇気」と、その上で相手のWinをも獲得しようとする「思いやり」を両立させることです。
お気づきでしょう、これは非常に難しいことです。
時には、両者での深く長い話し合いが必要になることもあるでしょう。
また、Win-Winを達成できそうにないならば、No Deal(どちらの方法も採らない)を選択する、という勇気も必要です。
「エゴ」から少し話が逸れましたが、『7つの習慣』でいうところのLose-Win(自己犠牲)の考え方の人が多すぎる気がするので、まずは自分のWinを獲得するための「勇気」を持ちましょう、そのために「エゴ」を肯定してみましょう、ということです。
『嫌われる勇気』の「課題の分離」でもある
「エゴ」を肯定するのは、「課題の分離」にもつながります。
「課題の分離」とは?という話については、こちらの記事をチェックしてみてください。
「課題の分離」を実践するための3つのポイント
再び、「エゴイズム」の定義を見てみます。
他人の迷惑を考えず自分の利益のためだけに行動するやり方、考え方
まさにここにツッコミどころがあるのですが、何が「他人の迷惑」になるかって、わからないですよね?
親切のつもりで良かれと思ってやったことが相手にとってはそれほど嬉しいことではないかもしれません。
逆に、いつものように行動しているだけで、意外なところで意外な人から感謝されていることもあるかもしれません。
「相手がどう思うか」を想像して思いやることはとても大切ですが、一方でそれを気にしすぎて自分を蔑ろにしては本末転倒です。
「エゴ」を肯定して自分を最優先することは、自分の課題(自分がコントロールできること)にフォーカスし、他人の課題(自分がコントロールできないこと)にばかり気を取られないようにする、まさに「課題の分離」とも言えます。
僕の場合のエゴの感覚
さて、この記事の元になった話、「僕が動く動機」を振り返ってみます。
- 人にびっくりされたい
- 人に「すごい」と言われたい
- 人に一泡吹かせたい
- 「やらないそぶりを見せておいて『やる』」をやりたい
これらは、僕自身の内側から込み上げてくるものであり、これらが第一になって動いています。
もちろん「他の人のために」と考えることもありますが、最近はむしろ上記のモチベーションを思い出し、意識することが多いです。
「びっくりされたい」から相手が求めているものを提供しようとするし、「すごいと言われたい」から作業効率を上げようとするし、「一泡吹かせたい」から良い成果物を出そうとします。
全て相手のためではなく、自分のため、自分のエゴです。
自分の課題(自分がコントロールできること)にフォーカスしています。
しかし、結果として相手にとっても”善いこと”になっていることが多いです。
「相手を助けたい」と思おうが、「相手を傷つけたい」と思おうが、結局のところアクションを取るのは自分です。
その人のエゴが善い方向に転ぶか悪い方向に転ぶかは、「エゴかどうか」ではなくその人が持っている倫理観や道徳観に依存するんだろうな、と思っています。
自分の人生は自分で選択したことの総和
いかがでしたでしょうか。
もちろん、人は社会的な生き物であり、他者との関わりによってこそ幸福になることができます。
しかし、どうあがいても自分の人生は自分で選択したことの総和によって成り立つものであり、選択する基準は自分のエゴにならざるを得ないと考えています。
あなたが選んだことがあなたの人生を形成し、その選択はあなたしかできないのです。
それでは。
人生は自分だけが主人公の脚本である【ポエムです】
チャイフ