こんにちは、チャイフ(@chaif123)です。
死生観についてのポエムを書きました。
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自分の人生をハッピーエンドへ導くことを目指している。
人生というのは、何のためにあるのか。
人生というのは、自分のためだけにある。
地球上に生きる万人に例外なくそうなのである。
他人の人生に口出しはできないし、している暇もないはずである。
他人に人生を口出しされる筋合いはないし、されている暇もないはずである。
人生を生きる意味とは何なのか。
人生を生きる意味とは、自分に与えられた人生を幸せに終わらせることである。
人生を生きる意味とは、自分に与えられた人生をハッピーエンドに導くことである。
自分に与えられた60年なのか80年なのか100年なのかをハッピーエンドに導くことである。
人生がハッピーエンドであればその人生は良い人生だったと言える。
人生がハッピーエンドでなければその人生は良い人生ではなかったかもしれない。
人生はどこに向かっているのか。
人生は死に向かっているのである。
人生は誰一人例外なく死に向かっているのである。
人生は生まれた瞬間から死に向かっているのである。
幸せに死ぬことが自分に与えられた権利であり義務なのである。
最後の1秒が幸せであるために79年364日23時間59分59秒を生きているのである。
幸せとは誰が決めるのか。
幸せとはその人生の主人公たる自分が決めることである。
幸せとはその人生の主人公たる自分しか決められないことである。
幸せとはその人生の主人公たる自分が幸せだと思うことである。
マイナスが多かった人生でも、最期の瞬間に自分が幸せだったと思えたならその人生は幸せなのである。
他の誰が不幸だと嘆いても、最期の瞬間に自分が幸せだったと思えたならその人生は幸せなのである。
最期の瞬間に自分が幸せだったと思えたならその人生はハッピーエンドなのである。
なんでもありなのである。
心配することはない、自分が幸せと思えば幸せなのである。
なんでもありで、それだけで大勝利なのである。
人生は脚本である。
脚本の主人公は自分一人である。
人生は脚本である。
人生はそれを与えられた自分だけが主人公として演じる脚本である。
主人公である自分以外の人間は、全て脚本に登場する脇役である。
重要な脇役もいれば、取るに足らない脇役もいる。
どれだけ大きな存在に映る脇役が登場したとしても、それは主人公を引き立てる役割に過ぎない。
脚本の主人公は一人である。
脚本の主人公は自分一人である。
自分一人だけが脚本の結末を変えることができるのである。
脇役が右だと言っても主人公が左だと言えば脚本は左へ舵を切っていくのである。
脇役が止まれと言っても主人公が進むと言えば脚本は次のページへ進んでいくのである。
脇役が進めと言っても主人公が休憩だと言えば脚本はしばらくの白紙を許すのである。
しかし主人公は一人では生きられない。
一人では物語の進行には限界がある。
人と人が話すことで物語は面白くなる。
人と人が交わることで物語は面白くなる。
人と人が協力することで物語は面白くなる。
物語が面白くなることはそれぞれの脚本を幸せにする糧になるだろう。
自分に与えられた脚本だ、脇役に気を取られている場合ではない。
しかし、脇役を全て排除してもいけない。
必要な脇役と必要なだけ人生を彩っていけばいい。
全てはその脚本をハッピーエンドで終わらせるための手段に過ぎないが。
願わくば、大勢の大切な脇役に囲まれて。
僕は、幸せに、死にたい。
チャイフ
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