こんにちは、チャイフ(@chaif123)です。
「得意」とか「苦手」という言葉は非常によく使われる言葉です。ただ、あまりにも解像度が低すぎる言葉でもあると思っています。
今回は多くの人が「苦手」と思っているもののほとんどは、能力的に劣っているのではなく「ただこれまでやってこなかっただけ」という説を推していこうと思います。
それでは!
Contents
いつから”それ”が「得意」や「苦手」になったのか
人間が生まれた瞬間に”それ”が「得意」なのか「苦手」なのかはわかりません。どこかのタイミングで”それ”が「得意」なのか「苦手」なのかのジャッジが下るはずです。自分でそう思うこともあれば、周囲の人間からジャッジされることもあります。どちらかと言えば後者が多い気がしますね。
「得意」や「苦手」は学生時代の刷り込みが多い
“それ”が「得意」なのか「苦手」なのかは、学生時代に決定することが多いです。
親から「◯◯が得意なんだね」「◯◯が苦手なんだね」と言われるかもしれません。教師から口頭や通知表で「◯◯が得意」「◯◯が苦手」と評価されるかもしれません。友達からそのように言われるかもしれません。
しかしそれらは、本人をその後10数年縛りつける「レッテル貼り」になりかねないのです。
テストの結果がその生徒の能力を示す
教室では、えらい子がテストでいい点を取れるんじゃなくて、テストでいい点を取れる子が「えらい」と名付けられる、という現象が起きています。そこから勉強をすれば「テストでいい点を取れる」余地は残っているというのに。
運動場では、運動神経の良い子が体力測定で良いスコアを取れるんじゃなくて、体力測定で良いスコアを取れる子が「運動神経が良い」と名付けられる、という現象が起きています。そこから勉強をすれば「体力測定で良いスコアを取れる」余地は残っているというのに。
また、プロスポーツの世界でも同じことが起きています。例えばプロのテニス選手は、試合の結果に応じて与えられる”ポイント”の数で世界ランクが決定します。1位の選手が事実として「誰よりも強い」わけでも、「全員に常に勝てる」わけでもありません。事実先行で、評価は後付けなのです。
本質的に「苦手」は存在しない
先ほど「得意」や「苦手」が学生時代に「決定する」と表現しましたが、果たして本当に”決定”なのでしょうか?
答えはNOです。
その人が”それ”を「得意」なのか「苦手」なのかは確定させることは誰にも不可能です。不可能だが「得意」や「苦手」を言語化できたほうが”便利”なので(仮に)”決定する”のです。”便利”というのは、例えばチーム内で誰かに役割を充てたり、就職活動をする際の言語化に”便利”という意味です。
「苦手」は「しない理由」にはならない
また、百歩譲って”それ”を「苦手」というだけならいいですが、”それ”を「しない理由」にはならないです。
「得意」や「苦手」は0か100かという絶対的な話ではなく、相対的なものです。教室で、クラスの中の順位で決められたり、大人が決めた想定の合格点に対する比較で決められたりするものです。
少し文脈は違いますが、『嫌われる勇気』にも関連する内容が書いています。
わたしの見立ては違います。どうして彼女は赤面症になったのか。どうして赤面症は治らないのか。それは、彼女自身が「赤面という症状を必要としている」からです。
「だって、あなたは赤面症があるおかげで、自分や世の中への不満、うまくいかない人生を納得させることができている。これは赤面症があるせいだ、とね」
by 『嫌われる勇気』
存在するのは「過去の自分が避けてきた」「過去の自分がやってこなかった」という事実のみで、今から”それ”に取り組むことは可能なはずです。特に、大人になってからは誰にも止められずにできるはずです。
「苦手」ではなく「苦手意識」
「苦手」という事実は存在しません。”それ”を「やってこなかった」という過去の事実が存在するだけです。
つまり、厳密に言うと「苦手」は「苦手」ではなく「苦手意識」が正しいです。あくまでも意識の問題なので、自信を持つことさえできれば更新することができます。人によっては「根拠のない自信」で「◯◯が得意だよ!」と言う人もいますが、少数派だと思っています。「苦手意識」を克服するための自信は、多くの場合実績に基づきます。つまり、小さな成功体験を積み上げていくことによって、「苦手意識」を更新することができるのではないでしょうか。
「◯◯が苦手」が思い込みだった例
さて、抽象的な話が続きましたが、ここからは具体的な話をします。
僕が実際に「苦手」だと思っていたものの中で、「実は苦手ではないのでは?」と認識を改めたものをいくつか挙げていきます。
国語が苦手
「得意」や「苦手」が学生時代に決定されがちなので、よくある例として「国語が苦手」を挙げてみます。
僕は算数が得意でした。そろばんを習っていて九九も小学1年生で把握しており、小学4年生でそろばん準初段の資格を取りました。٩(ワー)و それはさておき。
僕は「算数が得意」(中学からは数学)と思い込む一方で、「国語が苦手」とも思い込んでいました。学校では文系/理系という区別をするので、まるで「数学が得意」か「国語が得意」は二者択一かのような空気が学校全体に(?)広がっていた気がします。それがいつしか「国語が苦手」にすり替わってしまうという現象が発生したのだと思います。そして、「国語のテストで良い点数を取る」という実績が少なかっただけで、「国語が苦手」と決めつけるには早かったのです。
中学・高校でもその「苦手意識」は続いていましたが、高校で教えるのが上手い国語教師に出会い、少しずつ国語のテストの点数が上がり始めました。その頃から「数学が得意」「国語が得意」を両方謳ってもまったく問題ないのではないかと再発見しました。٩(ワー)و
早起きが苦手
僕は長らく、自分は「早起きが苦手」だと思っていました。体質的に”夜型人間”だと思っていたわけではないですが、なんとなく「早起きが苦手」だと思っていました。しかし、これもやはり「テストの点数」と同じく、事実しか存在しませんでした。つまり、「大学時代に早起きが全くできなかった」という事実だけが「早起きが苦手」という思い込みを成立させていたのです。
結論、「早起きのやり方」を知らなかっただけでした。あるいは、本気でやろうと思っていなかった。社会人になってしばらくしてから、早起きに関する情報を集め、試行錯誤している人の話を聞き、早起きを練習しまくりました。1年くらい失敗と成功を繰り返し、そうして「早起きができた」という事実を少しずつ記録して自覚し続けることによって、「早起きが苦手」という自意識を、「早起きが得意」という自意識に更新することができました。٩(ワー)و
人に話しかけるのが苦手
人によって会話のペースは違います。瞬発的に言葉を返す人もいれば、時間をかけて考えを整理してから言葉を発する人もいるはずです。それらはどちらが良くも悪くもなく、ただ「どちら寄りのタイプか」というだけの話のはずです。
僕はどちらかと言えば後者で、また特に「人に話しかけるのが苦手」だと思っていました。自分よりも得意に見える人が周りにいたから相対的にそう感じていたようです。
しかしこれに関しても、「苦手」の解像度が低かったようです。「何かしらの話題があれば話しかけることができる」ということに気づきました。話しかけるのが得意に見える人たちは、もしかしたら「話題を見つけるのが上手い」だけなのかもしれません。「苦手」と言って自分という人間の性能が低いかのように思ってしまうと対策も取れないですが、仕組みがわかれば対策が取れます。「得意」「苦手」と一蹴するのではなく、どの部分が苦手なのかを意識するようにすればよさそうですね。
読書が苦手
僕は自分で「読書が苦手」だと思っていたのですが、完全に「これまで読書をしてこなかった」だけでした。それは事実ですが、「本を読む能力が劣っている」なんてことはないと思います。これは能力の問題ではなく習慣化の問題です。
本を開くことは可能ですし、そこに書いてある文字を読むことは可能です。ただこれを続ければいつかは読破できます。実際に『7つの習慣』を読破したときも、半年かけて読み終えました。
【祝】1日5分の読書で『7つの習慣』470ページを読了して気づいた4つのこと
(ていうか、「読書が得意」ってなんなんだって話ですよね。笑)
「得意」か「苦手」かは能力ベースではなく事実ベース
いかがでしたでしょうか。
「得意」か「苦手」かというジャッジは、しばしば能力ベース(能力的に優れているか劣っているか)の文脈で語られますが、実際には事実ベース(それに関する実績が多いか少ないか)であることが多いです。
であるならば、「事実を今から積み上げれば、得意か苦手かという自己認知は更新していける」と思いませんか?
したがって、「苦手だからやらない」というのはナンセンスです。
- 「やったことがないけどやってみる」
- 「やってことがある」になる
- 続けていればいつの間にかいわゆる「得意」になっている
このような流れは容易にあり得ます。
これは「理想論」「言うは易し行うは難し」といって諦める類のものではなく、とても現実的で実践可能な理屈です。というより、僕たちは実際にそうやって成長してきたはずなのです。自転車に乗るのも、車の運転も、パソコンの操作も、スポーツも、勉強も、仕事も、全てそうです。
あなたは「苦手」だと思っていることはありますか?それはただ「経験値が少ないだけ」ではないですか?それを今5分だけ始めて続けていると、いつの間にか「苦手」ではなくなってるかもしれません。
それでは。
チャイフ
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