自己肯定感って、「俺はすごい」ではないと思うの

こんにちは、チャイフ(@chaif123)です。

僕は自己肯定感が低くはないと思っています。だからといって「自分に自信がある」というわけでもありません。むしろ、自分に対して自信はない方です。大した人間ではないと思っています。

自分に期待しすぎず、逆に卑下もせず、ただありのままの自分を受け入れ、認めています。ある意味、諦めているのです。正直、この自己受容のバランスはとても難しく、言われて「ハイそうですか」と実践できるものではないと思っています。

僕は、ありのままの自分を受け入れられる人が1人でも増えてほしいとは思っています。そこで今回は、例えばチャイフという人間が、自分に対してどんな考え方をしているのかを書いてみようと思います。あくまで持論としてお聞きくだされ。 ╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !"

それでは!

「諦める」は、ネガティブの皮を被ったポジティブワード

僕が思う自己受容のキーワードは、「諦める」です。

こちらの記事でも詳しく説明していますが、「諦める」というのは、ネガティブの皮を被ったポジティブワードだと思っています。

【意外】「諦める」という、実は前向きでポジティブな言葉の語源とは?

2020.08.26

「諦める」の対義語

粘る、こだわる、執着する、固執する、未練を残す

「諦める」とは、過去や”ないもの”に固執せず、現実や”あるもの”に目を向けよう、という勇気に溢れた前向きな言葉といえます。自分の能力や目の前の現実を受け止めること。なかなか難しいですが、一定の自己肯定感を獲得するためには、この意識は必要だと思いますね。

自己肯定感って、「俺はすごい」ではないと思うの

改めて、「自己肯定感」という言葉に目を向けてみます。「自己肯定感」という言葉はよく聞きますよね。いつの間にやらネットの世界でやたら見るようになりました。

自己肯定感(じここうていかん)とは、自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉であり、自尊心(英語: self-esteem)、自己存在感、自己効力感(英語: self-efficacy)、自尊感情などと類似概念であり同じ様な意味で用いられる言葉である。現在、これらの言葉は多義的に用いられることが少なくなく、結果としてあらゆる肯定的な心理的要素を表現する包括的名称(umbrella term)となっているという指摘がある。(by wikipedia)

間違ってはないですが、もう少し踏み込んでみます。

【肯定】《名・ス他》(述語とそれに係る要素とで表される意味内容を)そのとおりだと判断し認めること。「―文」。一般に、同意すること、価値があると判断すること。「現状を―する」

僕が言いたいことは、Aに対する肯定とは、「A is good」ではなく、「A is A」と認めることだ、ということです。自己肯定感って、決して「俺はすごい」ではないと思うのです。「俺は俺だ」が正しい自己肯定だと思っています。

人や現象に対してもそうですが、特に自分に対してこの評価をすることは難しいと思っています。good or bad で物事を見るのは簡単なのですが、ありのままを認める、ということは難しいです。一見意味がないように思えますし、何より慣れていないからです。

もう少し具体的に見ていきます。

「自分は凡人である」と認めることが第一歩

まず、「自分は凡人である」と認めることが第一歩だと思っています。

「自分は特別な存在である」という感覚は誰しもあるのではないでしょうか。また「こうあってほしい」「こうなってほしい」という周囲や世界に対する期待もあると思います。自分や周囲に対する理想が高いと、その理想と現実のギャップを受け入れられず、自己を(現実を)否定する…という結果になるのではないか、と思っています。

「自分は特別な存在である」という感覚を抱いたまま人生を歩んでいく過程で、ある日ふと脳裏をよぎります。

自分は特別な存在ではないのでは?

「自分は特別な存在ではない」と認めることは、一定の精神的ストレスを伴います。「信じていたものを手放す」ということに他ならないからです。

しかし、「自分はこんなもんだ」「自分は凡人である」と認めることは、自己肯定感を獲得する上では必須だと僕は思っています。

注釈するチャイフ
「圧倒的に自分に自信がある」一部の例外的人種は存在します。例えば、ローランド様とかです。彼らのようなウルトラレアと同じようになれるという希望は捨てましょう。

人との違いは単なる違いであり、優劣ではない

次に、人との違いは単なる違いであり、優劣ではない、ということをぜひ覚えておいてほしいです。

僕たちよりもサッカーが上手い人がいたとして、彼よりサッカーが下手である僕たちは、存在として劣等種なのでしょうか?同様に、僕たちよりも勉強ができる人がいたとしても。人付き合いが上手い人がいたとしても。ミスが少ない人がいたとしても。気配りができる人がいたとしても。

答えはNOです。全て、違いは単なる違いであり、優劣を決定する要因にはなりえません。

では、サッカーが下手で、勉強もできなくて、人付き合いが下手で、ミスが多くて、気配りができなければ、劣等種でしょうか?

これも、答えはNOです。個人差ですね。個性ですね。彼のことはほっとけばいいです。

ウェルスダイナミクスでも、8つの異なるプロファイルは優劣ではなく戦略が違うだけ、と捉えています。

【WD】ウェルスダイナミクスとは何か?【概要解説】

2021.12.16

僕は「比べる必要はないんだよ」とは言いません。誰かしらサンプルを取り出してきて、自分と比較し、参考にして自己研鑽するのは大いにアリです。しかし、比較して判明したその差に bad とハンコを押すことに意味はありません。ないものねだりをする必要はないのです。

所詮、できることしかできない

最後に、僕が仕事やプライベートで、定期的に自分に言い聞かせるようにしている言い回しの1つを紹介します。それは、「所詮、できることしかできない」です。

例えば仕事では、マネジメントの業務を行なっています。エンジニアの方々のように、課題に対して直接的なアプローチをすることができません。しかし、課題を明確にしたり、状況を整理したり、スケジュールの調整を行ったりすることはできます。

例えばテニスでは、後衛でのグラウンドストロークが非常に苦手ですが、サーブやポーチボレーは比較的得意です。試合においては、グラウンドストロークができることは手段で、勝つことが目的です。

「所詮、できることしかできない」と自分に言い聞かせると、諦めがつきますし、前向きに、現実的になれます。自分が持っている手札を知っておくことと、その手札をいかに有効活用するかが重要になります。

謙虚な心で、野望を持て!

いかがでしたでしょうか。

勘違いしてほしくないのが、「自分は凡人である」と認めることや自分の持っている手札を知っておくことは、絶望的ではない、ということです。むしろ、そんな自分でもチャレンジしたい夢、そんな自分だからこそ実現したい野望を抱くことは、人生を豊かにすると考えています。

持っていないものを無根拠に願わず、持っているものだけで現実的に掴みにいく。さしづめ「謙虚な心で野望を持つ」といったところでしょうか。ぜひ参考にしてみてください。

それでは。

チャイフ

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