【エッセイ】祖母(93歳)の危篤に家族が集まって思ったこと

いつものように在宅勤務をしていると、父から1本のLINEが入った。「おばあちゃんが長くないかもしれないから、来れたら来るか?」という内容だった。0秒で行くことを決意した。ただ重要な会議が18:00まで入っていたので、終わってからすぐに出発できるように荷造りだけして、最短で向かった。

祖母はとりあえず大丈夫だった

結果としては大丈夫だった。薬の副作用で数日食事ができておらず、すごい勢いで衰弱していったため、万が一ということもあり通知をしてくれたらしい。

到着したところ、とりあえず大丈夫ということを聞いたものの、正月に会った時からは見た目も変わっており、多少は動揺した。詳細は割愛するが、しゃべれる状態ではなかったので祖母との意思疎通はできず、片方の手は握ることもあるが反応は薄く、目は開いているが目が合うことはないような状態だった。

そうこうしているうちに、いとこ(弟)が到着した。いとこ(弟)は関西で働いているが、祖母の危篤連絡を受けて、僕と同じく飛んできたらしい。またしばらくして、いとこ(姉)が到着した。いとこ(姉)は関東在住だが、新幹線で飛んできたらしい。僕の兄(関東在住)だけは直近で受けたPCR検査で陽性だったらしく来れなかったが、そうじゃなかったら来ていた気がする。そんなこんなで、うちの両親といとこの家族を含めて、家族7人が平日にもかかわらず集まった。理由が理由だから当たり前なのかもしれないが、なんとも不思議な感覚だった。時間差で食事を取ったり、少し”思い出話”をしたり、祖母が寝てる横の部屋ではあるがちょっと楽しかった。

祖母のひととなりについて

そうそう。祖母は病院に入院する形ではなく、自宅で療養し出張看護師の方に日中来ていただく形にしているのだ。それは誰でもない祖母本人の希望だそうだ。だからまぁ変な話、騒いでも問題ない笑。うちの両親が「おばあちゃん美空ひばりが好きやって言うてたからかけてあげてんねん」と言ってYoutubeで検索した美空ひばりメドレーを耳元でそこそこの大音量でかけてたけど、「これは病院ではでけへんな」と思った。祖母は発話こそロクにできないものの、足でリズム取ってるようにも見えたからさすがに笑った。

祖母のひととなりについて。祖母はウェルスダイナミクスで言うところのスターだと思う。(スタープロファイルの友人についてはこちらの記事をチェックしてみてください)

【WD】推定スタープロファイルの友人に長らく憧れていた話

突拍子もないことを思いつくし、空気を読まない、人が好きで家族が好きで、みんなが集まれる場を作りたがっている。よく笑うし、いつも中心にいる。頻繁に冗談も言うし、お茶目。それでいて憎めない。無二の人柄を持っている。そんな人だ。今回集まったいとこ家族は、僕らが小学生の頃くらいまでは毎年正月に集まっていた。今思えば、それも祖母のパワーだったのかもしれない。”思い出話”と言っていたのはこれのことだ。

祖母を中心として、人が集まる

今回集まったのは、理由はともかく祖母が中心になっている。小さい頃、正月に集まっていたのも祖母が中心だったのかもしれない。今でもいとこ家族とは仲が悪いわけでは決してなく、むしろ仲は良い方だと思うが、集まるための「きっかけ」がない。直近で集まったのは「おばあちゃんが卒寿だから」で3年前に集まったのが最後だと思う。今思えば、この時も祖母が中心になっていたんだな。単刀直入に、もしも遅かれ早かれ祖母がいなくなってしまった後、いとこ家族と集まることはあるのだろうか?と思ってしまった。予定を立てれば集まることは容易だろう。しかし、関東に住んでいたとしてわざわざ関西に戻ってきてまで集まるだろうか…?

「集まらないといけないか」というと集まる必要はない。ただ”必要”とか”利害”とかで集まるもんではないだろう。それは家族だけでなく、友達同士で集まるときも同じである。「集まったら楽しい」とか「久々に話したい」とかそういうモチベーションでいいのだろう。実際問題、いとこは同年代の友達みたいなもんだから、話せる話はいくらでもある。この辺の感覚はめちゃくちゃ言語化しづらい。「集まるべき」…と言うとまた語弊が生じるが、たまに集まるぐらいはやってもいいと思うのだ。別にそれは祖母を喜ばすためとかではない。

僕のミッションステートメントの中に、こんな文言がある。この”家族”は自分の両親と兄弟までしか想定していなかったが、いとこ家族まで延ばしてもいいのかもしれない。

感謝の意を忘れず、伝える。家族一人一人と一個人として向き合い対話する。率先してその場を作る。

我がミッション・ステートメントを公開する!

 

会いたい人には会えるうちに会っておけ

「集まることはあるのだろうか?」と言いつつ、それは誰かがアナウンスをかけないと集まることはない。これも、友達同士で集まるときも同じである。結局のところ「集まりたい」と思った人がアナウンスをするしかないのだ。言ってしまえば、祖母は”それ”をやっていたのかもしれない。立場的にもそう(全員と直接血のつながりがある人)だし、何より性格的に”それ”ができる人だったのだろう。”それ”というのは、わがままである。「わがままで人を集められる」というのは強みである。特別な理由がなくても人は集まっていいのだ。「会いたいから」で会っていいのだ。しかし「会いたいから」で会うのは恥ずかしい。「わがままで人を集める」のが苦手な人もいる。僕がそうだ。だからこそ、「わがままで人を集める」をやってくれる人には正直感謝している。

今回僕は、「もっと元気なうちに祖母に会っておけばよかった」と少し後悔した。祖母はまだ快復中だが、どうなるかはわからない。「会いたい人には会えるうちに会っておけ」というのはとても大切な教えだと思う。そして何か伝えたいことがあるならばそれを伝えておく、というのも大切なことだと思う。改めて、そう思った。

チャイフ

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