世界は意外と狭く、自分がもう『おとな』であることを知る

こんにちは、チャイフ(@chaif123)です。

…最近ふと、「世界って狭いんだな」という感覚を得た。コロナウイルスが世界中に拡大した事実を考えていたときにそう感じたのだ。という話。

世界は狭い

1月下旬、中国のある地方で新型肺炎のニュースが入ってきた。致死率が高いことも含めて恐ろしいとは思いつつ、「マスクはいつもつけているし、あえて中国に行ったりしなければ特に問題ないだろう」と思っていた。

しかしほんの1ヶ月も経てば、日本どころか世界中に蔓延して、もうこの問題にいかに対応するかということが世界中の関心事になっていた。

少し前までは自分の関心事といえば仕事、家庭、経済生活、目標などであった世界中の人に対して、とんでもない速さである種のパラダイムシフトを起こした。

もう全ての判断に「このご時世の中でどうか」という判断軸が存在している。 もうコロナのことを知らない人はいない。たった1ヶ月でだ。

世界の速度が速い

「え?そんなすぐ世界って変わるのか?」

べつに世界が変わったわけではない。「世界の狭さ」を実感したというよりは、「ものごとの影響スピードの速さ」を実感した、という方が的確かもしれない。

それは、物理的に人やモノが移動する流通の速度にしてもそうだし、情報にしてもそうだ。

世界は意外とすぐに変わる

僕にとって世界は綺麗に秩序立っていて、『えらいひと』が考えた仕組みで回っていて、基本的には不変で、ちょっとやそっとのことでは動じない世界だった。その感覚が打ち壊された。(コロナはちょっとやそっとのことじゃないけど)

意外と、世界はすぐに変わるのだと。

そしてこれに関連して、もう一つ人生における天啓を得たような気がした。

世界は『えらいひと』が回している、そう思っていた

小さい頃から、この世界は『えらいひと』が回していて、自分はその下でそれに従う存在だという感覚がなんとなくあった。無知で無力な小学生の頃ならその感覚を持ち合わせていても問題ないだろうが、小中高大を経てシームレスに社会人になってしまった後も、この感覚はどこか残ってしまっている。

テレビで見る政治家や芸能人は『えらいひと』。あちら側からトップダウンに仕組みや情報やエンタメが降りてくる、自分たちはそれを受けて動くのであって、こちら側からの干渉はなく、あちら側の言うことは基本的には全て正しい。と、そう思っていた。

しかし、この騒動を浴びているうちに、そうではないということが実感に変わってきた。

政治家も人だし、芸能人も人だ。正解を出しているのではなくそのときそのときで正解と思われることを言っているだけなのだ。ベストを目指してもベターになることなんて日常茶飯事である。

医療関係者もコロナに対して神のような存在では決してなく、一般人よりも基礎知識を踏まえているだけの、同じ人なのだ。何でもかんでもわかるわけではない。

「この判断で大丈夫だろうか」という不安を常に抱えながらも立場上判断を下していかなければならない。けれどみんなのために自信満々の顔をしないといけない。そんなある意味不安定で頼りない存在が、ぼくたちが思っていたところの『えらいひと』なのである。

『えらいひと』=『おとな』で、僕たちも『こども』から脱却しないといけない

たとえば『えらいひと』に対してクレームを申し立てる人は往々にして目線が『おとな』ではない。いわばまだ『こども』目線なのだな。『こども』の目線では、『えらいひと』は正しいことを完璧にこなすべき存在だから。

ぼくたちはもう『こども』ではない。自分たちも、一抹の不安を抱えながらもどこかでなにかの判断を下す存在なのだ。

『おとな』にならなきゃ、ではない。

すでに『おとな』である、という自覚を持たなければいけない。

チャイフ

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