Hello, World.
“順風満帆”な社会人生活
2017年、京都大学大学院を卒業して、某大企業に就職することが決定していた。
1月2月は修論を完成させ、提出し、発表も終わり、あとは残された学生生活を楽しむのみ。ライブに行き、サークルの合宿に行き、卒業旅行に行った。
4月。
「中学生から高校生」「高校生から大学生」と何度かジョブチェンジを経験してきた僕でだったが、人生で初めて、「学生から社会人」という大きなジョブチェンジを行った。
6年暮らした京都を出て実家に戻り、片道1時間20分かけて通勤をする毎日が始まる。この頃のことを今振り返ると、「よくわからないなりに、一生懸命やっていた」。
社内研修、同期での懇親会、部署配属。
ボルダリングというどちらかといえばマイナーな趣味の合う同期が幸運にもいて、彼をはじめとして多くの同期と交流をし、仕事でもプライベートでもよく話した。
部署選びも間違っていなかった。部署の先輩方にも恵まれた。仕事はわからないことだらけだったが、周りにサポートしてもらいつつ、典型的なOJTによって少しずつ経験値を上げていった。
“順風満帆”。
そう見えるかもしれない。確かに、1日単位で見ていけば全く不満がなく楽しい日々だったように思う。
今、2022年4月だ。5年前の当時を振り返っても、順風満帆だったなと”錯覚”する。
しかし、意識できないレベルで潜在的に募っていた”違和感”がある日、僕の全身を駆け巡ることになる。
あるラジオを聴いて、人生が変わる
2018年。
6年前、大学2回生のときに京都・高野の1Kマンションのこたつの中でなんとなくフォローしたTwitterアカウント「ひらめきメモ」。あれから僕のタイムラインに時々登場しては、何か気付かされるようなコメントを表示させていたアカウントだ。
社会人になった今でもそのアカウントは僕のタイムラインに時々登場していた。
2018年3月12日。もうすぐ社会人としての1年が終わり、2年目に入ろうとする時期だ。
この日もTwitterを流していた。「ひらめきメモ」のところに珍しくURLが貼り付けられている。「ひらめきラジオ」。アカウントをフォローしたときと同じような感覚で、なんとなくURLを押して、動画を再生した。
このときにTwitterを流していて、かつこのURLを踏んだ自分を褒めてやりたい。
衝撃を受けた。
脳天を後ろからガツンと殴られたような感覚だろうか。
あるいは、身体中にビリビリと電流が走るような感覚だろうか。
それとも、PCから自分に向かって風が吹いているような感覚かもしれない。
すごい。
こんな生き方をしている人がいるなんて。
鳥肌が立つ。
なんて魅力的なんだろう。
なんて不思議なんだろう。
今の自分の生き方がいかにつまらないものか。
今の自分の生き方と何が違うのか。
この人たちがこんな考え方になっている理由はなんだ。
この人たちの見えている世界を見たい。
24年間止まっていた自分の時間が、いまこの瞬間に動き始めたような感覚だった。
24年間眠っていた自分の身体が、いまこの瞬間に初めて目を醒ましたような感覚だった。
…ちなみに、そのときに聴いた動画がこれ。一時期非公開になっていたけど、また公開してくれていて嬉しい。
『新しい環境で自分を再構築する技術』
僕が感じていた”違和感”の正体はなんだったのか?
衝撃を受けたときのくだりはこちらの記事にも書いたんだけど。
その記事では衝撃を受けた後のことしか書いていないのだけれど、1つ明らかになっていないことがある。
結局、僕が社会人1年目のときに感じていた”違和感”の正体はなんだったのか?一種の「正常性バイアス」…俗に言う「茹でガエル」状態にあったのだと思う。
結論から言えば、その”違和感”の正体は「仕事に対する納得感の低さ」だった。
確かに仕事をする上で学ぶことはあったかもしれないが、それが僕が学びたいものから近いかどうか、それを今後も学んでいきたいかどうか、この仕事を通して社会に、人に与えられるものは何か。それらを度外視してこの仕事を選んでしまったように思う。
僕は推薦で就職をしたのだが、正直なところ、
「有名な大企業なのだから間違いはなかろう」
「有名な大企業なのだから家族や周囲から批判されることもなかろう」
「就職活動で苦労することもないから楽だ」
…というような、字面にするのも恥ずかしいほどの程度の低い理由だった。
納得感が低いと自覚していながらその時間を過ごすのか
これに思い至ったところで、研究室の先生や親に対する罪悪感から、なんとなく現職をもう少し続ける選択肢もあったかもしれない。
けれど、限られた人生の中で、納得感が低いと自覚しながらその時間を過ごすことほど悲しくてもったいない時間の過ごし方があるだろうか?
「60歳までずっとこの仕事を続けられるか?」という自問に対して、NOと答えざるを得なかった。必ずしも「60歳まで続けられるかどうか」をモノサシにするべきではないが、このモノサシを当ててYESと答えられるような仕事を模索することは非常に有意義と言えるのではないだろうか。
…ただ、2018年3月時点では僕はまだ、その”違和感”の正体が「仕事に対する納得感の低さ」だとは気付いていなかった。まだこの”違和感”に対しての解像度が低かった。
漠然とした「このままじゃダメだ」という焦燥感や不安感が、僕をつき動かした。
そこから僕が具体的に何をやったのかは次の記事で書いていくことにする。
それでは。
チャイフ
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