推しへの課金は、まず自分を整えてから余剰資金でやるのが健全

こんにちは、チャイフ(@chaif123)です。

推しに課金することは、とても喜びを感じることです。

しかし、自分の身を削ってまですることではなく、そのバランスが重要なのだろうな、とも思うのです。

てなわけで、僕のブログでは定番ですが、答えのない問いに持論を展開しようと思います。

「推しへの課金は、すべきか?すべきでないか?」

僕の答えは「余剰資金でやりましょう」です。

それでは!

「推しへの課金」は応援の気持ちの表現

アイドルのイベントに行くこと。アーティストのライブに行くこと。CDを買うこと。即売会で好きな作家さんの作品を買うこと。ファンクラブに登録すること。好きなサービスに課金をすること。ソシャゲで石を買うこと。

「モノやサービスを享受した対価を払う」以上に、「応援をする」の気持ちを込めてお金を投じることがあります。

もちろん僕もお金を使うときに、そのような気持ちを持つこともあります。しかし、「応援をする」という理由だけでどんどんお金を使っていっていいのだろうか?と疑問を感じています。

あえて厳しい言い方をすると、「応援をする」というのを「お金を使う」ことの正当化に使っていませんか?ということです。

僕は「あなた」に幸せになってほしいし「あなたのため」にお金を使ってほしい

あなたは僕が知っている人なのか、知らない人なのかわからないですが、僕は「あなた」に幸せになってほしいし「あなたのため」にお金を使ってほしいのです。

あなたが他の誰かの幸せや、他のサービスの発展を願ってお金を使うのは、それ単体で見ればとても良いことだとは思うのですが、そのせいであなたが不幸せになるのであれば、それは本末転倒だよなぁ、と思うのです。

赤外線で「推しへの課金」をするな

ウェルススペクトルという理論において『赤外線』というレベルがあります。

ウェルススペクトル『赤外線』とは何か?わかりやすく解説

2022.06.08

『赤外線』とはわかりやすく言えば、キャッシュフローがマイナスの状態を指します。毎月の収入ー支出が、マイナスになっている状態ですね。そのお金の使い方を続ければ続けるほどお金が減っていく、という生活の仕方をしている状態です。

この『赤外線』レベルにある状態で、「推しへの課金」をするのは、果たしてどうなのでしょうか?

砂漠の中でしんどそうにしてる人から水を渡されても快く受け取れない

よくある喩えですが、日常ではなく砂漠、お金ではなく水に喩えられます。

「推しへの課金」は、砂漠の中を歩いていて、自分が大切な人に対して水を分けてあげる行為に似ています。その人がもっと元気になるように、もっと活動を続けられるようにと願って、水を渡すのでしょう。

しかし、あなた自身が喉がカラカラ・息も絶え絶えの状態で、水を分けてあげる、というのは果たしてどうなのでしょう。それはもらう側の人が嬉しいのでしょうか?僕なら、水を分けてくれようとする気持ちはありがたいですが、まずはあなた自身がその水を飲んでくれ、と思ってしまいます

「推しは推せるときに推せ」はキャッシュフローがプラスの世界の言葉

自分が支えてやらないとそのコンテンツがなくなってしまう

たまに聞きます。

推しは推せるときに推せ

よく聞きます。

僕も色々と推し活をしている身としてこれらの思想には賛同しますが、書かれていない大前提があります。

「自分が支えてやらないとそのコンテンツがなくなってしまう」とか「推しは推せるときに推せ」というのは、自分のキャッシュフローがプラスであることが大前提にあるのです。自分のキャッシュフローがプラスの人たちの世界でのみ通用する言葉なのです。

まずは自分を第一にして整えてから、余剰資金で課金する

僕は「人生第一」という至上の価値観を提言していて、それは「自分の人生を大切にすることを第一に考える」ということです。

https://twitter.com/chaif_123/status/1021239511378845696?s=20

その課金があなたの人生をハッピーにするのであれば止めないです。あなたの「推しを応援したい」という気持ちはとてもとても、それはそれは尊いものです。

しかし、だからと言って我が身を削ってまでお金を投じるのはやめるか、控えめにするようにして、余剰資金が出てきたら課金をする。そんなスタンスにしてくれると、僕が安心します。

まぁ、ぜんぶ”余計なお世話”なんですけどね。

それでは。

チャイフ

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