世界は汚いし、不完全だし、全ては思い通りにならない。
いつだったか、もはや覚えていないが、それを悟った瞬間があった。いや、瞬間ではなく、次第にその可能性を感じるようになり、時間と共にそれが確信に変わっていったのかもしれない。
暗い話とか自分語りをしたいわけではなくて、僕がこの記事で伝えたいことは「無根拠な幻想や理想や期待は手放して、できることをやっていこうよ」ということだ。
Contents
真っ白に見えた世界が、少しずつ黒くなっていく
子供の頃は、世界はキレイで、秩序だっており、大人は完璧に見えた
僕たちは、等しく何も知らない状態で生を受ける。
そして成長とともにいろんなことを知っていく。それは、必ず大人から教わる。
自分に言葉や、モノの名前や、知識や経験やルールや、楽しい遊びや世界の広さを教えてくれる大人は、なんでも知っているように見えた。
神という概念は知らなくても、神のように感じるかもしれない。
コンビニはいつ行っても商品が綺麗に陳列されている。カフェでは手際良くコーヒーやサンドイッチを作って提供してくれる。交通インフラは毎日整然と運行している。社会に出たらみんなテキパキと仕事をしているように見える。
世界はキレイに見える。清潔という意味ではなく、うまく機能していて、秩序だっているように見える。誰しもが道徳的で正しいことをして、それで世界もうまく回っているように期待した。
少しずつ闇を見る
しかし。
コンビニ店員は発注ミスをすることもある。カフェの厨房内は意外とてんやわんやだ。先輩や同僚は意外とできないことはあるし、課長も部長も社長も完璧ではないとわかってくる。(あ、でも日本のインフラはマジですごいよ。)
さらに過激なものでいえば、テレビからは犯罪のニュースは流れてくるし、学校ではいじめは少なからず存在し、家庭にはいろんな親がいる。社会に出ればクレーマーや詐欺や悪徳商法が身の回りにいくらでも存在するし、会社では横領や意図的な機密情報漏洩などが発生するし、世界に目を向ければ戦争は起きるし、未知のウイルスにスマートに対応することはできない。
世界はキレイで、秩序だっており、大人は完璧だと思っていたら、全く意味がわからない。どうして。こんなはずじゃない。ウソだ。こんなものは認めたくない。信じたい世界、キレイな世界に逃げ込んでいく。
「世界は汚いものである」と認められるか?
「知っている」のと「認める」のは違うと思っている。
「犯罪が起こってしまうのを知っている」だけじゃ足りない。もう少し言葉を補足すると
「犯罪は起こらないのが本来あるべき姿で、純白無垢な状態。犯罪が起こってしまうことは知っているけれど、それは一時的なもので、今はたまたま汚れているだけで、時間が経ったりみんなの努力によって犯罪がない世界は実現できるんだ」
と理想を抱いている状態だ。それは見て見ぬふりとも言えるし、何もできないのに綺麗事を言っているようなもんだ。
僕はこの理想を抱いている状態にアンチテーゼを唱えたい。つまり「犯罪はどうあがいても起こってしまう」「世界は汚いものだ」「世界は不完全だ」と、認めることだ。受け入れることだ。諦めることだ。
夢見るだけの理想を捨てて、やるなら現実的に理想を目指せ
自分のコントロール外のことに関して淡い幻想を抱いている状態はしんどいだけ
ここまで強い単語や強い思想を表現してきたことを詫びる。
ただ、僕はヘイトスピーチをしたいわけではない。暗い話をしたいわけでもない。精神衛生上良いスタンスに立った方が人生がラクになるよ、という話をしたいのだ。
「犯罪は起きないもの」という最高の状態を基準にしていると、1つでも悲しいニュースを目にするたびに大きくショックを受けてしまう。それはとても人間らしい心の動きだと思う一方で、それは疲れてしまうよなとも思うのだ。
犯罪に限った話ではない。「自分のコントロール外のことに関して淡い幻想を抱いている状態はしんどいだけ」ってことを言いたいのだ。
「ミスは起きるもの」と「他人は思い通りにならない」
最も効果的な「諦め」を2つお伝えしたおく。
「ミスは起きるもの」と「他人は思い通りにならない」だ。
ミスというのは自分もするし、他人もする。そういう意味では、後者は前者を包含している。ただ「ミスが起きないべき」という理想に縛られている人は多いと思うので、特記しておいた。「ミスが起きない」ことは理想ではあるが、現実ではないのだ。
自分も他人も、遅刻することはあるし、モノを壊すことはあるし、モノを無くすことはあるし、ケガをすることはあるし、寝坊はするし、夜更かしはするし、食べすぎることはあるし、イライラして人に当たってしまうことはあるし、AmazonでCDを買ったのを忘れて同じCDを2枚買ってしまうことはあるし、店の人が注文を聞き間違えることはあるし、サンドイッチを作り間違えることはあるし、見積を甘くなってしまうことはあるし、想定通りに仕事が終わらないことはある。
理想を目指すこと自体はめちゃめちゃ有意義なんすよ
「それだけに縛られないで」「現実を嘆く必要はないんだよ」と言いたいだけで、理想を目指すこと自体はめちゃめちゃ有意義だ。というか、それを人類全員がしなくなったら世界の進歩は止まる。あと、人類がヒマすぎてしぬ。
遅刻しないように逆算して動くのは有意義だし、モノを壊さないように丁寧に扱うことは有意義だし、モノを無くさないように定位置を決めておくことは有意義だし、ケガをしないように危険予測をすることは有意義だし、寝坊しないようにアラームをかけることは有意義だし、夜更かしをしないように寝る時間を決めることは有意義だし、食べすぎないようによく噛んで食べることは有意義だし、イライラして人に当たってしまわないようにアンガーマネジメントを勉強することは有意義だし、AmazonでCDを買ったのを忘れて同じCDを2枚買ってしまわないようにCDを買うときは注文履歴を1回確認することは有意義だし、店の人が注文を聞き間違えないようにハッキリ伝えてあげることは有意義だし、見積を甘くならないように複数人のレビューを受けることは有意義だし、想定通りに仕事が終わるように計画的に仕事をすることは有意義だ。
ただ、他人の動きはコントロールできない。お店の人がサンドイッチを作り間違えるのは、こちらからはどうしようもないから、「じゃあどうするか」だけを考えればいい。「作り間違えるなんてあり得ないだろ!」とキレても何も状況は変わらない。ただ不満のエネルギーで疲れてしまうだけだ。
理想と現実のギャップは、やるか諦めるかの2択
理想と現実がある。ビジネス用語のTo-beとAs-is、というやつだ。
そして、そこには多くの場合ギャップが存在する。その「ギャップを嘆くだけ」はただただしんどいよね、という話はさっきした。「じゃあどうするか」は2択だと思っている。
- 「関係ない」「仕方ない」と諦めて別のことをする(関心の輪)
- 自分事と捉えてガチで取り組む(影響の輪)
「関心の輪」「影響の輪」は『7つの習慣』の用語だ。
自分の影響範囲・コントロール範囲外のことに対しては、ただ願ったり祈ったり嘆いたり悲しんだり怒ったりしても、言い方はアレだけど意味がない。それで心をすり減らすくらいなら「関心の輪」のことは忘れて、違うことにアプローチしたりエネルギーを使った方がよっぽどいい。自分のキャパシティを把握して、持てるものだけ持って、持ちきれないものを手放す方がよっぽどいい。
あるいは、自分の影響範囲・コントロール範囲内だと捉えて、”それ”を影響の輪に入れて、ガチで取り組むこと。世界平和のことは、一般市民にとっては「関心の輪」だが、国防庁や外務省の人、あるいは多くの政治家にとっては「影響の輪」だろう。投資家の存在や銀行との関係・株価の上下は多くの一般社員にとっては「関心の輪」だが、役員にとっては「影響の輪」だろう。「ガチで取り組む」とは「”それ”を影響の輪に入れること」、さらに別の言い方をすれば「当事者になる」ことだ。
「影響の輪」を広げることは、『7つの習慣』でも推奨されている。やってはいけないことは、「関心の輪」に気を取られることだ。
自分の身の回りを豊かにする
世界は汚いし、不完全だし、無秩序で、全ては思い通りにならない。それはもう仕方がない。だから、自分ができることをする。自分の身の回りを豊かにする。
目の届く範囲をキレイにする。拾えるゴミだけ拾う。いいなと思えるところに募金をする。目の前の人のためにできることをする。
「そんなことをしても何も変わらない」そうじゃないんだ。そんなことは分かっているんだ。僕もあなたも、どっちにしろできることしかできないのだから、できることからやっているんだ。それだけの話だ。
チャイフ
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