価値観が違う人たちがわかり合うことはできるか?

こんにちは、チャイフ(@chaif123)です。

僕とあなたを区別するものはなんでしょうか。顔?性格?性別?環境?考え方?経験?どのような文脈で語られるかによって、どれも正解になりうるでしょう。

僕が考える端的な答えは、世界の見え方です。

同じモノに対する感じ方が違う。

同じ情報に対する捉え方が違う。

僕たちは誰しもが価値観の中に生きていますから、全てを一人一人が持っている価値観というフィルターを通してキャッチします。そのフィルターが違えば、同じものを見ても違う解釈になります。

そんな中でどうすれば「わかり合える」のかについて考えていきたいと思います。

なんだかとても哲学的であり宗教的な文脈になってしまっていますが、僕は哲学も宗教も嫌いではないので問題ないですね。(?)

それでは!

世界の見え方が違うだけ

さて、人と人とを区別するものは世界の見え方、という話でした。本筋とは離れますが、同じ世界に生きていても、その世界が所属する全員に違って見えているのだから、ある意味、”世界”はそれを受け取り感じる人の数だけ存在するとも言えるでしょう。世界は約80億ほども存在すると。さぁ、何を言ってるのかわからなくなってきましたね。

解釈のみが存在する

かの有名な哲学者ニーチェも次のように言っています。

事実というものは存在しない。存在するのは解釈のみである。

地動説と天動説の話がとても象徴的な例です。

その昔、世界ではキリスト教の考え方である「地球が中心であり、すべての星は地球を中心に回っている」という天動説が常識でした。誰しもが、太陽も月も、その他すべての星が地球を中心に回っていると信じて疑わず、それが人類にとっての”事実”でした。しかし、ガリレオとコペルニクスが「中心は太陽であり、地球も太陽の周りを回っている惑星の1つに過ぎない」という地動説を唱え、常識が覆されました。

その人にとってそう思えること=(その人にとっての)事実であり、それはいわゆる解釈、ですよね。

世界の「色」も人それぞれ

もう1つ例を考えてみましょう。

みなさんは「色弱」というものを聞いたことがあるでしょうか?人間の目に備わっている赤、緑、青の色を感じる細胞がうまく働かないことをいいます。日本人で色弱の人は、男性で20人に1人(!)、女性で500人に1人いると言われています。

例えば赤色を感じる細胞がうまく働かないことをP型色弱と呼ぶそうです。色弱ではないAさんの世界では紫色は「紫色に見えています」が、P型色弱のBさんの世界では紫色は「青色に見えています」。それぞれが同じものを指して「紫色だ」「青色だ」と主張し合うわけですね。(Bさんにとっては「そもそも紫色とは?」となるかもしれません)

以上は特殊な例ではありますが、言葉通り視覚的な色の見え方でも人によって違ってくるのです。物事に対する意見なんて、一致することの方が珍しいでしょう。ちなみに、もちろん色弱も1つの個性ですから、どちらが正しいとかどちらが良いということはありません。見え方が違う、それ以上でも以下でもありません。

人と人とは「わかり合える」のか?

まだ抽象的な概念の域を出ていないような気もしますが、先ほどの例で「世界の見え方・感じ方が人によって違う」ということがなんとなくでも伝わっていれば幸いです。

さて、私たちは1人で生きているわけではありません。誰かと足並みを揃えて行動していくこともあると思います。世界の見え方が違う中で、本当の意味で「わかり合う」なんてことは可能なのでしょうか。

わかり合うことはできない

僕の答えは、「わかり合うことはできない」です。即落ちですね。もちろん限りなくそれに近付けることはできると思いますが、完全に世界の見え方を一致させることはできません。

2人の兄弟を常に同じ環境に置いて同じ教育を施したならば、同じ考え方を身に付けるような気がします。それでも、例えば兄が走り出したとき、それを「見ている弟」と「前を走っている兄」では見ている風景が違いますから、すでに考え方に影響が出るでしょう。

では、そんな中で少しでも歩み寄るためにはどうしていくのがいいのでしょうか。

話すこと

話すことは1つの手段であり、その目的は「価値観を共有し合う」こと。

価値観を構成している要素は例外なく、その人の過去です。その過去とは、生まれ育った環境、関わってきた人間関係、インプットした情報、経験、それらに対する感情などです。

過去は価値観を定義づけるものです。どう影響するかは複雑に絡み合うので一概には言えませんが、ここが原点です。いわば材料です。構成要素です。関数でいうと引数です。

この過去が人によってーーーそれこそ80億人全員でーーー異なるのですから、そこから定義づけられる価値観も全員違うものになってきます。

何かを見た。何かを聞いた。目の前で何かが起きた。誰かが意見を言った。それに対して、良いと思う/悪いと思う、嬉しい/楽しい/面白い/悲しい/嫌な気持ちになる、など受け取り方を共有していく。すると「この人はコレに対してこう感じるんだな」ということが相手にインプットされる。

この一連の流れを繰り返していくことによって、次の瞬間には過去になるその「世界の感じ方」を理解した状態で未来に進んでいく。

一番手っ取り早いのは、脳と脳を繋いで記憶をそのまま共有することですが、技術的にも倫理的にもヤバい気がするのでまぁ却下ですね。

わからないから話さないんじゃなくて、わからないから(わかっていくために)話すのですね。

相手の話を聞くこと

これは話すことと同時にできることですが、実践できている人は少ないのではないかと思います。僕はあまりできていません。

よほど意識しないと、自分の意見(価値観)のぶつけ合いになりがちだからです。そこをぶつけ合いにせず、相手が何を主張しているのか、なぜその主張になるのかを意識して話を聞くこと。これはビジネスでもプライベートでも、どちらでも大切なことです。

コツは、相手の意見に反応しないことです。自分の意見を言いたいときは、以下の2点を意識すれば、価値観のぶつけ合いにならずにすみます。

  • 相手の意見を呑み込む(=納得してなくても、一度受け取る)
  • 自分の意見としては…、ということを強調する

相手には相手の立場があります。性格も違います。家庭環境、体調によって、正しい判断ができていないかもしれません。あるいは理解や認識にズレがあるために意見が違ってくるパターンもあるかもしれません。その1つ1つに反応せず、まずは受け取っていくことが第一ではないでしょうか。

自分の考えを記録しておくこと

自分1人にフォーカスを当ててみたとしても、ポジティブだったりネガティブだったり、慎重だったり大胆だったり、価値観が変化しているはずです。体力と精神の状態をHPとMPなんて表現されたりもしますが、体力的に元気でも、悩み事があったり直近で辛いことがあったりすると精神的な面でポジティブになれないこともあります。

急いでいたらイライラもするし、気持ちに余裕があると他人のために優しくなれたりします。自分の中での気持ちの変化を記録・自覚しておくことによって、人の価値観がバラバラであることに対して、より寛容になれるかもしれません。

諦めること

基本的に違う生き物ですので、諦めることが重要です。

「そんなネガティブな」と思われるかもしれませんが、そもそも諦めることはネガティブなことではありません。余談ですが、「諦める」とは仏教における「諦観」から来る言葉であり、「あきらかにみる」ということを指しています。悪い状態は一度忘れて、真理を受け入れ、対策を立てて実行していけ、というむしろポジティブで前向きな言葉です。

「同じ人間なのに、どうしてわかってくれないんだ!」とヤケになるのではなく、「違う生き物だから、わかり合えない。その中でどうしていくか」という思考回路に切り替えるのです。

この考え方をお互いに持っているだけで、「わかり合えない」という事実に対する軋轢が生まれなくなりますね。みなさん、諦めましょう。

“違い”を受け入れたうえで、歩み寄る

同じ人間ではありますが、違う人間です。初めから「わかってもらえる」ならとてもラクです。その近道を求めてしまいそうになりますが、諦めて違う生き物であることを認めましょう。

ここで1つ注意すべきなのは、そこに価値観の「違い」はあっても「上下」はないということです。どちらが正しいということもなく、どちらも正しくもあるのです。それぞれが世界を、目の前のものをどう見ているかをまずは相手に伝える。そこがスタート地点です。

それでは。

チャイフ

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