こんにちは、チャイフ(@chaif123)です。
仕事とかプライベートとかに限らず、世の中のコミュニケーションにおいて、「犯人探し」が息を吐くように行われていることにずっと違和感があるんですよね。
すべてのことで問題が起きずスムーズに日々が進行している限りはみんなハッピーなんですが、どうしても問題は発生します。それはもう必ずです。ただ「問題が発生しました!」ってことが発覚した次の瞬間には「誰のせいなのか」という思考になりすぎな気がするんです。「WHY?」はいいけど「WHO?」だけになるのは違うだろう。と言いたいんです。
ってなわけで今回は、「犯人探しやめよう?」って話をしていきます。
それでは!
Contents
「犯人探し」でエネルギーを消耗されることが不毛
「犯人探し」をして何が問題かというと、それでエネルギーを消耗されることが不毛だと思ってるんですよね。
問題に向かって「WHY?」というコミュニケーションが起こるのはいいけど、「WHO?」だけに終始してしまうのは、無駄だと思っています。100%無駄とは言いませんが、多くの場合、原因究明と再発防止策の一要素であるはずの「犯人探し」それ自体が目的になってしまうことがよくあります。
「犯人探し」をやりすぎると、単純に疲れるんですよ。全員が疲れます。本来は味方であるはずのチームなのに、攻撃したいわけでもないのに「犯人探し」を前提としたコミュニケーションをするとどうしても攻撃的に解釈されます。
原因究明(言語化)と再発防止策の立案自体は必要
大前提として、原因究明と再発防止策の立案は必要です。発生した問題を放置していいはずがありません。ただ、僕たちは組織や家族という共同体のなかで、方針やルールのなかで必要に応じてコミュニケーションを取りながら、誰かしら担当を決めたり役割分担をしながら日々を過ごしています。
その中で起きた問題が、「誰か1人のせいである」ということが起こりうるでしょうか?僕は、そんなことはほぼないと考えています。
問題点
「誰のせいでもなく、システム・ルール・構造上の問題」の可能性が考慮されていないことが多い
「誰のせいでもなく、システム・ルール・構造上の問題」の可能性はけっこうあります。それが考慮されていない・忘れられていることが多いです。
例えば、「経理上の処理としてゼロを1個多く入力してしまう」というミスが発生したとしましょう。これに対して、「入力担当者の不注意」だけで済ませていいのでしょうか。もちろんそれで100%防げればある意味問題はないのかもしれないですが、そもそも人間の注意力に頼る構造自体を見直すべきかもしれません。ヒューマンエラーを起こさせないシステムを作ることを考慮してもいいかもしれません。もうあらゆるテクノロジーが発達している令和の時代なのですから、「人間にミスをさせない」「ミスをしても問題にならない」ような構造を考える方向にもっとエネルギーを使ってもいいと思うのです。
一応断っておくと、もちろん「誰かのせい」であることもたまにあります。当事者意識が低くて注意すべきポイントを注意できていなかったとか、そのタスクをするには技能値が低かったのにその人だけに任せてしまって失敗してしまったとか。(後者の場合は指示した上層部にも責任がある気がしますが)
天災を人のせいにしますか?
余談ですが、「システム・ルール・構造上の問題」でもなく、「マジでどうしようもなかった」「再発防止策もクソもない」というパターンもあります。
わかりやすいのが、天災です。天災が起きたとして、それを誰かにせいにしますか?って話です。もしも天災に対してすら「耐震構造にしていなかったのが悪い」「インフラはどうなっているんだ」となお叩ける人を探して人を叩く人ばかりの社会だったら、もうこの世は終わりだなと思いますが、さすがにそこまでではないと思うんです。
で、さながら天災のように、「これはもう本当にどう考えても防げなかった」「できることはあったかもしれないけど、それを今さら言っても仕方ない」ってことは、意外と日常生活でもあります。天災が起きたときの私たちの行動は、「どうにかする」「何ができるかを考える」「復旧に向けて動く」ですよね。それでいいと思うんです。
「私のせい or あなたのせい」で考えられていることが多い
「私のせい or あなたのせい」で考えられていることが多い気がしますね。
自責思考 or 他責思考の二項対立になってしまっている、とも表現できます。これに思考がロックされてしまうと、どうしても責任のなすりつけ合いになりやすいです。なぜなら、「自分が責められること」は誰しも恐いからです。共同体である前に個人として、自分を守ろうとします。自分を守るために自分に責任がいかないようにするためには、誰かに責任をなすりつけるのが手っ取り早いです。
しかし、その前提が「私のせい or あなたのせい」という極端な思考の罠にかかっている状態なんですね。先ほどの通り「システム・ルール・構造上の問題」であることもありますし、「そこにいた全員の責任」ということもあります。
例えば、案件を受注できたらそれは100%営業のおかげでもないですし、案件を失注したらそれは100%営業のせいでもないですよね。結果と原因を1対1で結びつけようとするのがそもそも罠なのです。
個人的には、責任を数字で案分するとわかりやすいです。
- システム上の問題が50%で、そこが本質であり、対策を打つべき
- その上でメンバー内での責任をあえて数値化するとすれば、最終チェックをしたチームリーダーの責任が20%でちょっと重め
- 他のメンバーも資料を見れる立場だったのだから10%ずつ
- やり方(システム)の改善をしつつ、各自でできる再発防止策を取っていこう
こんな感じでいいんじゃないかなぁ〜と思います。
「誰でもミスはある」という視点が抜けていることが多い
また、「誰でもミスはある」という視点が抜けていることが多いです。
これは「ミスをしていい」と言いたいわけではなくて、「後からならなんとでも言える」ということを指摘しています。
ミスをさせない、ミスを問題にさせないシステムを考え、担当者がそもそもミスをしない努力は必要だし、その前提です。その上でもやっぱりどうしてもミスをしてしまって問題になってしまうのが世の中です。それに対して、後から「ここをこういうふうにしてなかったのが悪い」とただ好き放題言うのはかなり良くないですね。
「逆の立場ならうまくできたのか?」というのがクリティカルクエスチョンです。「できる」と即答できるならまだマシですが、できないのにただ口だけ言うというはかなりアンフェアですよね。
「本人が明らかに悪いのに全く反省していない」とかならキツく言ったほうがいいかもしれないですが、もう弁解の余地もなく本人も反省していて、「次からこうする」という再発防止策も出ているのであれば、もうその件について話すのは終わりにする、というのが健全だと思います。
「犯人探し」でスッキリして「次から気をつけてね」は本質的な対応なのか?
「犯人探し」って、それをすること自体が目的になってしまうことがあります。
誰かのせいにするのって、言い方は良くないですが「スッキリする」んですよね。「その問題に対して適切な対処をした感」かもしれません。
例えば不祥事や事故を起こした企業の社長が謝罪会見で頭を下げることがあります。つまり「誰かが反省の色を示す」というのでその件を落着させることがあります。なんというか説明が難しいんですが、謝罪することは大事だと思うんです。その問題で被害を被った人からすると、感情的な納得感を得るためには謝罪してもらうのが一番です。
ただ、「じゃあその件を落着させるために、誰かしら犯人を作って謝罪させる」のがいつも適切な対処かというと、そうではないと思うんです。わかりますか?
前述の通り、誰かのせいであることもあるし、そうでないこともあって、システムや構造上の問題だったり、複数人で責任を持ち合っていることもよくあります。その中で、「誰かが代表して謝罪するのが手っ取り早い」という不健全な理由で、犯人探しをしてしまっているケースがけっこうあると思うんです。「誰のせいでもない」という結論で物事を落着させる、という経験が僕たちには足りなさすぎるんです。
また誤解する人が出てくると思うので断っておくと、「不祥事や事故を起こした企業が謝罪しなくていい」と言っているわけではなく、あれは必要です。毎回毎回あのパターンに当てはめて安易に「犯人探し」に走るのが良くない、ということを言いたいのです。
「罪を憎んで人を憎まず」
いかがでしたでしょうか。
僕がこの記事の中で長々と話してきたことは、「罪を憎んで人を憎まず」という諺に全て集約されているような気もします。「罪」とは少し過激な印象ですが、小さな問題発生も同じことだと思います。
もう令和の時代です。安易な「犯人探し」はやめて、問題自体に目を向けることをしてみませんか?
それでは。
チャイフ
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