【エッセイ】「ブログを続けてて何の意味があるのか?」とふと怖くなった

こないだ寝る前に、ふと思うことがあった。

ブログをそれなりに続けてきているけど、「このままただ続けていても何も変わらないな」という感覚を覚えた。恐怖に似た感覚だと思う。「無意味である」という結論にはならないにしても、自分が取り組んでいることの意義がブレかけるというのは、ハシゴを外されるようで、何とも怖い。そもそも僕は、なぜブログを始めたのだろう。ブログを始めたきっかけは、僕が所属していたオンラインコミュニティ「ライフエンジン」(2023年にサービス終了済み)で、何人かブログを運営している人がいたから。自分のペースに合わせられるし、文字ベースなら自分にもできるかも、ということで始めたのだった。無意味ではない。ブログを続けていて得た確実な成果として1つ言えるのは、自分の価値観や考え方を1つのパッケージとして言語化ができたことだ。習慣化・タスク管理・早起きに対する教訓とか、課題の分離に対する考え方とか、「諦める」ことの重要性とか、自由や選択を重視していることとか。誰かに説明するときでも、その記事のリンクを渡してあげれば済むので、それはそれで良かったと思う。

僕は世界の”歪み”を変えたいらしい

では、「このままただ続けていても何も変わらないな」という感覚はなんなのだろう。そこで、いくつか自問をしてみる。

「つまり、何かを変えたいと思っている?」

イエスだ。ブログを通じてでも、そうでなくとも、何かを変えたいと思っている。ブログはそのための1つの手段に過ぎない。

「変えたいと思っているのはどんなキーワードがありそう?」

世界、常識とかかな。もちろんいきなり一気にそんな影響力を持たせることは不可能だとわかっているが、最終的にはそれらに対してアプローチしたいと考えている。

「世界や常識に対して、変えたいと思う要素がある?」

イエスだ。世界の”歪み”を正したいという思いがある。そして、そうだ、思い出した。僕は”教育”に対してもアプローチしたいとかねてから思っている。なぜなら、この世界の構成員たるホモ・サピエンスが100年ごとに総入れ替えになるにもかかわらず”歪み”が残り続けるのは、”教育”に原因があると思っているからだ。自分が正しい教育を受けたかどうかは判定できないが、自分よりも正しくない”教育”を受けた人が世界にいくらでもいるという現状がもどかしい。

“歪み”ってなんやねん

“歪み”ってなんやねん、って感じですよね。

ゆがみ【歪み】

1 ゆがむこと。ゆがんでいる状態。ひずみ。「テレビの画像の歪み」

2 心が正しくないこと。「性格の歪み」

正しい状態、正しいと思われる状態に対して、ズレている状態。正しくない状態。

“歪み”とは、本質を捉えられていない状態

僕のイメージでさらに補足すると、「正しくない」は本質を捉えられていない状態、とも言えるかもしれない

例えば昨今のコロナ問題で、「マスクをつけること」は本質ではない。感染拡大を防ぐことが本質である。マスクを装着する直接的な意味は、自分が保菌していた際に他の人に移さないため。他者からの飛沫感染を防ぐ効果はない。僕がずっと疑問に思っていることが、人が多数いるわけでもない屋外において律儀にマスクを装着している人が多すぎることだ。しかも彼らは歩きながら咳やくしゃみをしているわけでもない。咳やくしゃみで飛沫を飛ばしてしまうならマスクを装着する意義は大いにあるが、ただ歩いて呼吸しているだけでマスクを装着する意義はない。先ほど「律儀」と言ったが、彼らはコロナの感染拡大に寄与するためにマスクを装着しているわけではないと僕は思っている。彼らの考え方は2パターンだと思っている。1つ目が、何も考えず周囲や社会が「マスクを装着するべし」と言っているからただ合わせている人。2つ目が、他人の目を気にして誰かに後ろ指を指されることを怖れている人。どちらかだと思う。軽く検索して出てきた以下のサイトが、コロナウイルスの感染拡大の基本的な疑問を解消してくれると思う。

参考:https://www.hmedc.or.jp/department/infectious-diseases/covid_faq/

(浜松医療センター – 新型コロナウイルスQ&A)

悪と理解しつつその行為をする人は、いる

僕が思う「正しい」「正しくない」のもう1つの例として、法的な正しさに喩えてみる。例えば、世の中には犯罪をする人と犯罪をしない人がいる。犯罪の定義は法律に記載してある。その行為を行う上で、法律の内容を知っているかどうかを含めて、4パターンがあり得るだろう。

  1. その行為が法律的に悪であると理解しており、その行為をする人
  2. その行為が法律的に悪であると理解しており、その行為をしない人
  3. その行為が法律的に悪であると理解しておらず、その行為をする人
  4. その行為が法律的に悪であると理解しておらず、その行為をしない人

2.の人は大多数の人たちだ。3.は法律や一般教養という観点で正しい”教育”を受けられていない、あるいは正しくない”教育”を受けた人たちだ。4.は大多数の人たちの中で、道徳や倫理を理解している人たち、あるいはたまたまやっていないことが法律に含まれていただけだ。

問題は、1.の人たちである。これは、法律や一般教養という観点では正しい教育を受けられているが、何かしらの理由で犯罪を行なってしまう人たちだ。これは2.の次に多い。「悪いとわかっていてやってしまう」のは、まさに僕が思う”歪み”の1つの側面だ。専門用語でいうと、認知的不協和だろうか。これは、小さい子供がやってしまうならともかく、成人にも見られる事象なのだ。なぜ「悪いとわかっていてやってしまう」のだろうか?答えは簡単である。「本人の中では”正しい”から」だ。小さい子供がやってしまう(大人たちはしばしば”いたずら”と呼ぶ)のにも、「おもしろかったから」とか「試してみたかったから」とか「大人たちをびっくりさせたかった」とか。成人がやってしまう(大人たちはしばしば”犯罪”と呼ぶ)のにも、何かしらの理由がある。どれもこれも、本人にとっては”正しい”のだ。

まともな考え方をする人を増やしたい

さて。

僕はなにも世界の犯罪を減らしたいわけではない。それは結果でしかない。その前の段階として、「正しい」…というかまともな考え方をする人たちを増やしたいのだ。僕がどれだけ補足したところで、この”まとも”な考え方は定義できるものではない。で、話を戻すと、それに対するアプローチとして、ブログっていうのがどこまで効果があるのか疑問に思ったのだ。まぁ僕の文章がわかりづらすぎる(抽象的すぎる)ために伝わりやすさが低いのは原因だろうなとは思いつつ。本当に実現させようとするには規模が大きすぎて、1人の人間の人生でやろうとすることではないのかもしれない。

僕がしたかったことは”啓発”だったことを思い出した

先ほど”教育”というキーワードが出てきた。もしかしたら僕は”教育”がしたいのかもしれない。僕が自分がやりたいことを言語化できていないのだが、なんとなくぼーっと考えていたことだ。人に影響を与えたい、考え方を良い方向に変えたいという欲求は、広義では”教育”といえるのかもしれないし、さらに端的な単語としては”啓発”…かな。

けいはつ【啓発】:無知の人を教え導き、その目をひらいて、物事を明らかにさせること。

そうだった。思い出した。大切なことを思い出したわ。ここで1点、いわゆる”啓発”を行うときに注意すべきこととして、価値観の押しつけと混同してはならない。「これが正解なんですよ」という前提で語ってはならない。仮に言葉として「これが正解なんですよ」という語り口調になっていたとしても、受け取り手(あなた)が「その通りだ」と受け取る必要はない。僕があなたに「そうは思わんかね?」と問いかけたところで、あなたは「そうは思わん」と回答しても良いのだ。あなたはただ、参考にすればいい。ただ参考にしてくれれば、僕は100%満足なのだ。

何かが腹落ちした。僕はこれからも、「自分がこう考えている」ということを発信し続ける。「それって違うんじゃね?」という意見はめちゃくちゃ大歓迎なのである。そうして僕たちの周りに無数に存在する「考え方」について建設的な議論が行われる場が増えれば、世界の正しさは増していく。そんな気がする。

チャイフ

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