人類は「あなたが悪い/私が悪い」の二択をそろそろ手放すべき

何か問題が起きたとき、僕たちは反射的に「誰が悪いのか」を考えてしまう。

仕事でミスが発覚したとき、まず頭に浮かぶのは「自分のせいだろうか」という問いではないだろうか。自分に原因がありそうなら、謝るべきか、事情を説明すべきかを考える。自分のせいではなさそうだとわかれば、今度は「あの人のせいだろうか」と考え始める。

この思考の切り替わりは、ほとんど無意識のうちに起こる。

しかし、そもそも「自分が悪いのか、誰かが悪いのか」という問いの立て方が、問題をややこしくしているのではないかと思う。

問題の原因は、必ずしも一人の人間に集約されるわけではない。複数人の行動が重なって起きることもあれば、誰かの行動以前に、仕事の進め方や仕組みに問題があることもある。

それなのに、最初から「誰が悪いか」を決めようとすると、原因を考えるはずの議論が、いつの間にか誰かを裁くための議論になってしまう。

今回は、そんな「あなたが悪い/私が悪い」という二択の考え方について書いてみたい。

「誰が悪いか」を考え始めると、いつの間にか誰かを裁くことが目的になってしまう

例えば、仕事で何かトラブルが起きたとする。

本来、原因を調べる目的は、起きてしまった問題に対処し、同じことが繰り返されないようにすることであるはずだ。

もちろん、その過程で「誰が何をしたのか」を確認する必要はある。誰がどの作業を担当し、どこで判断を誤ったのかがわからなければ、原因を突き止められないこともあるだろう。

しかし、「誰が何をしたのか」を明らかにすることと、「誰が悪いのか」を決めることは、似ているようで違う。

前者は、問題が起きた経緯を理解するための問いである。後者は、ともすれば誰かに責任を負わせるための問いになってしまう。

厄介なのは、問いを立てた本人に、誰かを責めるつもりがあるとは限らないことだ。

「誰のせいなのか」を明らかにしようとしていただけなのに、話し合いが進むにつれて、特定の誰かに非があることを証明するような流れになってしまう。

そして「あなたのせいではないか」と問われた人は、問題の原因を一緒に考えるよりも先に、自分を守ることを考え始める。問いの受け手の受け取り方も、この話をややこしくしてしまう一因になっているのだ。

これでは、再発防止のための話し合いが、互いの非を追及し合う場になってしまう。

謝ることは、100%自分が悪いと認めることなのか

「あなたのせいではないか」と言われたとき、人が取りやすい反応は、大きく分けると二つあると思う。

謝るか、言い訳するか、である。

もちろん、実際には説明したり、事実関係を確認したりと、さまざまな対応がある。ただ、責任を追及されていると感じた瞬間には、「非を認めるか、認めないか」という二択に追い込まれたように感じやすいのではないだろうか。

ここで考えたいのが、「自分にも非がある」と認めることと、「問題のすべてが自分のせいである」と認めることは違う、という点である。

例えば、ある仕事で自分の確認不足によってミスが起きたとする。

確認を怠ったことについては、当然、自分に非がある。そこは認めて謝るべきだろう。

しかし、その仕事には確認の手順が定められていなかったのかもしれない。複数人で確認する仕組みがなく、一人の注意力に頼り切った運用だったのかもしれない。

その場合、自分の確認不足は問題の原因の一つではあっても、唯一の原因とは限らない。

それにもかかわらず、「申し訳ありません」と謝った瞬間に、「では、今回の問題はあなたが悪かったということで」と話が終わってしまったらどうだろう。

自分の(部分的な)非を認めたかっただけなのに、問題全体の責任を引き受けたことになってしまう。

 

シンプルに、エグい。

 

しかし、現実におそらく、あらゆる職場とあらゆる家庭で、毎日のようにこれが起きているのではないか。

先述の通り、仮に追及した側に「誰かに非を100%押し付けたい」というつもりがなくても、「受け手側の受け取り方」や「慣習」により、半ば自動的にそうなってしまう厳しい状況である。

こうした経験を重ねれば、人は謝ること自体に慎重になるはずだ。自分にも改善すべき点があるとわかっていても、それを認めた途端にすべての責任を負わされるなら、まずは言い訳をしたくなるかもしれない。

つまり、「誰が悪いか」という問いを中心に据えることは、率直に非を認めることさえ難しくしてしまうのである。

誰か一人が100%悪い、とは限らない

そもそも、日常で起きる問題の多くは、誰か一人の行動だけで説明できるものではないと思う。

例えば、飼い猫が棚の上に置いてあった花瓶を落として割ってしまったとする。

花瓶を落としたのは猫である。これは事実だ。

しかし、だからといって「猫が100%悪い」と言い切れるだろうか。

猫が登れる場所に、落としたら割れてしまう花瓶を置いていた飼い主にも、事前にできることがあったはずだ。

これは、猫と飼い主のどちらが悪いかを決めたい話ではない。

花瓶が割れたという出来事には、「猫が花瓶を落とした」という直接的な原因と、「猫が触れられる場所に花瓶が置かれていた」という環境上の原因がある、という話である。

同じようなことは、人間同士の仕事でも起こる。

誰かがミスをしたという事実だけを見れば、その人に原因があるように思える。しかし、少し視野を広げると、そのミスが起きやすい状況を別の誰かがつくっていたり、複数人の認識違いが重なっていたりすることもある。

だからこそ、誰かの行動に原因があったとしても、そこで原因の調査を終わらせるべきではないと思う。

「その人が何をしたか」に加えて、「なぜその行動が起きたのか」「ほかに問題を防げる場面はなかったのか」まで考えたい。

そもそも、人ではなく仕組みに問題があるかもしれない

さらに言えば、人間の非だけで問題の原因を説明しようとすることにも限界がある。

例えば、カフェやレストランで注文ミスが起きたとする。

口頭で注文を受けたホールスタッフが聞き間違え、違う料理を提供してしまった。

このとき、「注文を間違えたスタッフが悪い」で話を終わらせるのは簡単である。スタッフが復唱していたなら、それを十分に確認しなかった客にも多少の行き違いがあった、と考えることもできる。

しかし、そもそも口頭で注文を受けるというオペレーション自体が、聞き間違いや伝達ミスを起こしやすい仕組みなのかもしれない。

であれば、注文内容をその場で画面に表示して確認してもらう、あるいはQRコードを使った注文方式に変更することで、同じ種類のミスを減らせる可能性がある。

もちろん、QRコード注文にすればすべての問題が解決するわけではないし、店の雰囲気や客層によっては口頭注文のほうが適していることもある。

それでも、「スタッフが次から気をつける」という対策だけで十分なのかは、考えてみる価値がある。

あえて原因を数字で表現するなら、スタッフの確認不足が20%、客との認識のずれが10%、注文の仕組みが70%、という見方もできるのではないだろうか。

もちろん、これは実際に測定できる数値ではなく、考え方を示すための例である。

重要なのは、問題の原因を人間同士で100%分け合う必要はないということだ。

スタッフと客のどちらがどれだけ悪いかを議論し続けるよりも、注文ミスが起きにくい仕組みを考えたほうが、次の問題を防げるかもしれない。

「誰が悪いか」という単純すぎる問いだけでは、こうした構造的な原因が見落とされやすいのである。

二人しかいないと、「自分でなければ相手が悪い」と錯覚しやすい

ここまでは、仕事のように複数人が関わる場面を中心に考えてきた。

しかし、この問題は、二人暮らしのような環境ではさらに厄介になると思う。

三人以上が関わる場面なら、自分のせいではなさそうだと思ったときにも、結論はすぐには出ない。ほかの誰かが関わっている可能性を考える余地がある。可能性が多く時間が生まれるので、フラットな思考ができる可能性が高くなるし、「誰か1人だけのせいではない」「構造的な原因でもある」といった、あるべき発想も比較的生まれやすい。(それでも「誰のせいか?」という問いに絡み取られてしまう場合も多いだろうが)

一方、二人しかいないと、「自分のせいではない」という認識が、次の瞬間にそのまま「ならば、相手のせいだ」という結論につながりやすい。

例えば、家で必要な日用品が切れていたとする。

自分は最後に使っていない(という記憶・認識がある)。だから、自分のせいではない。となると、相手が補充しなかったのが悪い。

そんなふうに考えてしまうかもしれない。

しかし、もう少し発想を広げると、そもそも補充の担当が決まっていなかったのかもしれないし、残量が少なくなったときに互いに気づける仕組みがなかったのかもしれない。

二人しかいなくても、原因が二つしかないわけではない。

「自分か相手か」という二択に見える場面にも、二人の認識のずれや、暮らしの中の仕組みの問題が存在し得る。

自分に非がないとわかった瞬間に、相手に非があると決めつけないようにしたい。

「誰が悪いか」の前に、「何が起きたか」を考えたい

ここまで書いてきたが、誰かの非を明らかにすること自体が不要だと言いたいわけではない。

自分の行動に問題があったなら、それを認めて謝る必要がある。相手の行動によって困ったことが起きたなら、改善してほしいと伝える必要もある。

ただし、そのときに忘れたくないことが二つある。

一つは、誰か一人が100%悪いとは限らないこと。

もう一つは、人間の非だけで問題の原因の100%が埋まるとは限らないこと。

何か問題が起きたとき、僕たちは「私が悪いのか」「あなたが悪いのか」を急いで決めようとしてしまう。

その前に、何が起きたのか、互いにどのような行動を取ったのか、問題が起きやすい仕組みになっていなかったかを考えたい。

自分の非は自分の非として認める。しかし、それだけで問題の全体像を理解したつもりにならない。相手に非があったとしても、それだけで原因の調査を終わらせない。

目指したいのは、誰かを悪者にすることではなく、同じ問題を繰り返さないことである。

「あなたが悪い/私が悪い」の二択に陥りそうになったときこそ、いったんその問いを手放してみたい。

チャイフ

もう令和の時代ですし安易に「犯人探し」するのはやめませんか?

2024年5月12日

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